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2017年9月 9日 (土)

明治の数学教師・亀田米子と裁縫教師・中川つる(宮城県)

 ――― 「戦後に強くなったのは女と靴下である」と言われているが、過去の女性が余りに弱かったがために強く感じられるのであって古い時代の女は決して男子に劣っていなかったことが歴史に残されている・・・・・・徳川時代に入ると儒教からでた「女の三従七去」の法で完全に縛り上げられてしまった・・・・・・女訓書が次々に出され女の道を教え・・・・・・

 ――― 女子の私立学校は洋裁を主流とし、和裁・編み物・料理・簿記・タイプ・珠算・舞踊などを教えた。仙台市内だけでも裁縫関係で20数校、石巻・塩釜・古川・気仙沼・白石の各市、郡部にも設けられてあり、近くの学校で花嫁修業ができる時代に・・・・・・(『宮城縣史』)

 

 引用文はかなり古い考え方だが、わずか30数年前の『宮城県史』女子教育の一部である。同書、女性銘銘伝には夫や家業に尽くしよく働いた女性が多数登場する。女に学問はいらない花嫁修業をという社会、女が自立し擢んでると生き難い時代だったが、亀田米子中川つるは自らの才能・才覚で後進を育てたのである。

 

         亀田 米子

 

 1871明治4年8月15日、仙台の商家・亀田萬吉の娘として生まれた。
    亀田家の祖先は水戸藩に仕えていたが、祖父の代に仙台に移って商人になり、紙類・石油・砂糖を取り扱い、パンを製造して軍隊に納めた
 父の萬吉、区長をつとめ政治的手腕もあり、他人の世話をよくした。また、常に仏書に親しみ宗教に関心をもち、俳諧にも通じていた。 母うめは、石巻の郷士・佐藤利右衛門の娘で大勢の使用人を指揮し、自ら先になって働き通した。

   ?年   米子、7~8歳頃 国語・漢文を学び、音楽を習い、裁縫を修得した。
 1887明治20年、中川つる身章女学校を仙台南町に創設。

 1892明治25年、*私立東京数学院の分院が東北中学校内に設けられる。
    米子は父のすすめで入学し普通科を修めた。
   ?年、  米子はその道を究めたく東京の本院に入学、数学的才能を認められる。上野清校長の娘、いし子とともに女流数学家として名を知られた。

 

     *私立東京数学院:東京市神田区猿楽町2番地。入学金1円、月謝50銭、校費5銭。
        数学部 本科:高等の数理を講究、修業年限16ヶ月。 
            普通科:官立学校へ入学する者。後期とも4ヶ月。
              別科:初学者または速成を要する者。4ヶ月。
        英学部 初等科・普通科・高等科、各6ヶ月。
        漢学部 予科。漢学兼修科。漢学専修科

 1894明治27~28年、日清戦争
 1896明治29年、三陸沿岸に大津波被害。仙台南町に私塾「数学研究所」開設。
    25歳の女子ながら毅然として、大学・士官学校の受験生に数学を教えた。

   ?年~1905明治38年、仙台市立高等女学校(東二番町)が創立されると招かれて数学・漢文・音楽・修身などを教えた。
   ?年、*東北中学校に招かれて男子中学生に教えた。 
          おそらく、女の先生が男子の中学校で数学を教えたのは初めてと思われる。
     *東北中学校 仙台市北一番町。校長:五十嵐豊吉。1年から5年生まで約380名
          教諭:間崎勝義・亀田米など9名。助教:2名。講師:亘理寛之助など14名。

  1911明治44年、 中川つる身章女学校を引き受けて裁縫を教える。
 1930昭和5年、宮城県教育会より表彰される。
 1932昭和7年、61歳で退職。
          40余年にわたり米子に教えを受けた者は数万人に及ぶ。 

 1945昭和20年、仙台空襲(焼失家屋11,933戸、死者1066人)。米軍、仙台・松島に進駐。
      米子も戦火に遭い住居を失い、奈良に住む甥の養嗣子・孜(東北大名誉教授)の許に。
 1949昭和24年7月15日、死去。78歳。
    三回忌の命日、弟子達によって追悼会が催され、頌徳碑が菩提所の仙台市新寺小路 大林寺境内に建立された。        

 

        中川 つる

 

 1851嘉永4年(?)、藩の侍医・涌谷繁の長女に生まれ、長じて中川操吉に嫁ぐ。
 1868明治元年、明治維新後、夫の操吉は宮城郡芋沢の地に移り開墾事業に従う。のち、東京駿河台のロシア正教神学校に入学してロシア語を学び、帰郷して小学校に勤務。
 1875明治8年、操吉は上京して警視庁に就職、2年後、西南の役に出征。
 1877明治10年、西南戦争。操吉は米倉の激戦で戦死。
      つるは家計をたてるため家塾を開き近傍の女子に裁縫を教え、また小学校に勤めた。

 

 1887明治20年、家塾を身章女学校とし、認可を得る。
    この当時、仙台にはキリスト教主義の宮城女学校があったくらいで、まだ公立女学校がない時代であったから、入学者が年々増加し、仙台女子教育に貢献した。
 1904明治37~38年、日露戦争
 1911明治44年、身章女学校を20歳年下の亀田米子に譲る。

 1942昭和17年4月7日、90歳で死去。
   墓所には、教名楚比亜と文字が刻まれており、キリスト教の信仰をもっていたと察せられる。子に恵まれ、長男・中川信一は軍人、次男・中川望鹿児島県知事のち日本赤十字社副社長貴族院議員

 

     参考:  『宮城縣史』1986宮城縣史刊行会編著/ 『改正官立公立及ビ私立諸学校規則集』1895広原新 / 『宮城県学事関係職員録』宮城県教育会1922金港堂
  “科学・数学女子、女性初の帝大生・黒田チカ <その二>” 
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/10/post-15f1.html

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