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2017年9月 2日 (土)

陶磁研究の先駆、奇人・塩田力蔵 (福島県)

 気付けば9月、秋は来ぬとトンボがスイー。思いなしか風も爽やか、たまには縁側でお茶にしよう。さっそく、*万古焼の急須で緑茶を淹れ、狭い縁側に座ればまさにご隠居さん。ただし、このご隠居さん、飛んだり跳ねたり忙しく、若い人とおしゃべりして気は若い。でも、ときに若い世代の感覚に差を感じて「へーそうなんだ」と相づち。ところが、若い家庭は「急須どころかヤカンもない」と聞かされたときには「エッ-」 驚いていると、「まな板もない家も」という。良くも悪くも暮らし方は人それぞれ、この先どう様変わり。

  *万古焼: 伊勢国桑名の沼波弄山(ぬなみろうざん)が創始、江戸万古の名がある。天保年間(1830~1844)に再興、四日市などで褐色・朱褐色の急須を中心とするものが作られている。
   今回の主人公塩田力蔵の兄・健蔵は、二本松万戸焼の創業者で、売れない焼き物をつくり続け、極貧の中で没したという。力蔵はこの兄と博識な父親の影響もあってか、陶磁器研究に生涯を捧げる。

        塩田 力蔵  (しおだ りきぞう)

 1864元治元年9月8日、二本松城下で半農半商で製粉業を営む「扇屋」塩田喜助の二男として生まれる。父の儀助は近隣に博識で知られていた。
   ?年、  松岡小学校を卒業。
   ?年   福島師範学校(福島大学)を卒業、訓導(教師)になる。のち首席訓導に昇進するも私生活は、年中一着の詰襟を着て、瀬戸物いじりをする毎日であった。
 1885明治18年、陶磁研究を志して上京、生活のため雑誌記者をしながら研究に励む。

 1892明治25年、『色の調和』(学齢館)刊行。
     『色の調和』緒言―――美術工芸の多岐なるもその相貌を約すれば、遂に形色の二者に帰す、今形体の法則に就きては世上固より所説多し、ただ色彩の理法に関しては邦内未だ一部の成書あるを聞かず、これ本編の出づる所以なり・・・・・・

     『日本色彩学会誌』支部報告: 2012.3.31慶應義塾大学日吉校舎にて支部総会開催。年関東支部大会・・・・・・色彩学成立に寄与した著者及び著書(塩田力蔵・矢口達也・和田三造・上村六郎・前田千寸・金子隆芳など)それぞれの功績について説明・・・・・・

 1893明治26年、力蔵は同郷で仲の良い*石井研堂の雑誌『小国民』に「地熱防護会議」「化学総選挙」など奇抜な着想の科学読み物を寄稿する。
 ペンネームは鹵男子(ろだんし)、鹹湖上人(かんこしょうにん)。由来は「鹵」は塩の地、「鹹湖」は塩水湖の意味で、自分の名前・塩田をもじっている。
      *石井研堂: <『明治事物起源』石井研堂(福島県郡山)>
     https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/01/post-8f90.html

 1896明治29年、力蔵、*岡倉天心の自宅に寄寓する。
      *岡倉天心: <観古会・竜池会・東京美術学校、高村光雲(江戸下谷)>
     https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/04/post-9c28.html
   力蔵と研堂はウマが合い、毎日のようにあっていた。研堂は日記(研堂日乗)に、
     ――― 鹵男(力蔵)近日 岡倉覚三(天心)邸内に移り製陶試験を為すといふ、遂に他人に頼りて事を為す人たるを免れず

    力蔵はこれ以後、天心の学僕といった格好で、終始天心と行をともにす。
 1898明治31年、天心によって日本美術院が創立されると学術部に参加。
 1899明治32年、天心の勧めで美術学校に陶器講座を開設、高い評価を受ける。
     そのころ二本松同郷の*高橋太華が日本美術院にいたが、二人は犬猿の仲だった。
 1902明治35年、日本美術院編集部主任兼日本絵画協会副会長に就任。
     *高橋太華:<『佳人之奇遇』と高橋太華(福島・二本松藩)>
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/01/post-5ce3.html

 1909明治42年、日本窯業協会『日本近世窯業史』編纂に傾注するあまり、世間から隔絶した無頓着な日常生活をおくる。世間から奇人視され、学者として大成するも生活は窮乏した。

    <二本松市 ふるさと人物史「塩田力蔵」>より
     ――― 住まいはあばら家、病弱ながら一生懸命、学者として研究に励む向学心は凄まじいものがありました。給料や印税の大部分を、全国各地の窯元探訪と参考文献購入に充てていたため生活は困窮。金がない時は古本屋に通い詰めて筆写したり、またある時は研究費に困り、蔵書の大半を図書館に譲渡したともいいます。研究のためならなりふりを構わない、“天真爛漫の純情な奇人”でした。献身的学究の結晶は、数多くの名著として残されています。 http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/soshiki/54/392.html

    <明治末頃の奇人エピソード>

     ――― あるとき力蔵の家に盗人が入ってきたので捕らえてしまった。力蔵が何故に盗みにきたのか詰問すると「空腹のため仕方なく」というので、自ら餅を焼いてやった。そして力蔵は盗人に「腹ごしらえをして待って居れ、捕らえた以上は法律上自分は警察に届けねばならないから」と出て行った。警官を伴って帰ってみると、いくら呑気な盗人でも、もう姿はなかった。力蔵曰く
「今時の盗人というものは、あれほどいいつけたのに、逃げてしまうとは、さてさて当てにならぬものだわい」と、警官も吹き出して了った。

     ――― (研堂の一人息子・石井寿郎の思い出) 親父の研堂から言いつかって訪ねたんですが、せまい路地をはいった塩田さんの玄関口に張り紙。みると、ガスも電気も引いてないから、集金の必要なしと書いてある。かねて変人奇人と聞いておりましたが、なるほどなあ
      (『石井研堂-庶民派エンサイクロペディストの小伝』山下恒夫1986リブロポート

 
 1921大正10年、『肥前磁器の創業記』講述: 有田焼、陶工柿右衛門など創業上の概略を述べている。
 1922大正11年、『陶磁器工業』 (「日本近世窯業史」3)刊行。
    同年、『岡倉天心先生欧文著書抄訳』 東洋の理想・日本の覚醒・茶説・日本的見地より見たる現代美術な、末尾に逸聞録。

 1931昭和6年、『陶磁工芸の本質』刊行。良書百選に推薦される。
    ―――文化人をもって自任する現代人は味覚の満足を最終目的とせず、また千金を価する美術的作品の玩賞に終始せず、日常偶黙する無名の一物に自然と人力との堅き握手を見いだすべきではあるまいか・・・・・・されば本書の目的は陶磁器を骨董鑑賞家より奪って、一般大衆の課題たらしめんとするところにある。

 1937昭和12年、「常滑窯」について
    ―――塩田は常滑の窯が知多半島に広く分布し、古代以来の窖窯の存続と紐造りの技法、叩き成形から変化した押印文装飾が存在することなどを指摘している。また、赤塚幹也のフィールドワークに基づく研究成果から山坏・小坏(山茶碗類)のみの窯と山坏・小坏に大鉢・壷・甕などが共伴する窯、そして、壷・甕のみの窯が半島内に認められるという知見を紹介している(「中世常滑の研究」2014中野晴久)。

 1939昭和14年、『寂円叟-陶雅新註支那陶器精鑑』。1941昭和16年、『説瓷新註支那陶磁』
 1942昭和17年、『東洋絵具考』アトリエ社
      普通絵の具の性質、その使用法や貯蔵法などに関する注意事項を纏めたもの・・・・・・絵の具の欠点、絵画の革新、画面の位置、絵の具の苦心、絵画と絵の具、作画の工夫、金箔、金泥、泥類、膠類、油類、紙、絹、筆、硯、色の調和、狩野派の絵の具、文献類聚etc 絵を描かなくても鑑賞の助けになりそう。本書そのた著作、国会図書館デジタルライブラリーで読める。 http://kindai.ndl.go.jp/

   戦争中、甥の住む猪苗代町に疎開。病苦と闘いながら著述に没頭。
1946昭和21年2月3日、82歳。猪苗代で困窮のうちに世を去る。美術誌『古美術』が追悼文を掲載、その結びが切ない。
  ――― 清貧に甘んずるという程の余力もなく、貧と病苦の中に独身で自己の学術に邁進していった翁の姿を、誰が涙なしに偲ぶことができるであろうか。

 死後、原稿用紙1300余枚にのぼる「支那歴代陶窯類纂」の草稿を残し、幻の大著と言われている。死後、『陶器用語辞典』(1947雄山閣)が出版された。塩田力蔵の足跡をたどると、立派な研究と著書もあるのに知る人が少ないのは不思議。塩田力蔵のように埋もれている人、まだまだいるかも知れない。

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