銀座の大久保彦左衛門・毛糸輸入の元祖、三枝与三郎
子どもの時から本さえ読めればよく、結婚相手もサラリーマンにした。そしたら相手は、よく働きよく遊ぶ会社人間で深夜帰宅はざら、読書時間は山ほどあった。雑読乱読するうち歴史好きになったが、教科書にでてくる偉人より無名人物に興味がわく。そうした人物名を覚えていると子孫や研究者の書いた小伝に出会えたりする。なかでも博覧強記の著者による伝記は小編でも人物像が浮かびおもしろい。とくに*内田魯庵は多彩な同時代人をとりあげていて興味が尽きない。
魯庵に会って話が聴きたい・・・・・・叶うはずもない事を思ったりする。幸い全集があり、文庫もあるので折に触れて読むが、『魯庵の明治』に毛糸がでてきて目がとまった。
*内田魯庵: 1868明治1年~1929昭和4年 評論家・作家。
文明批評や回想談などすぐれたものを残し、「思ひ出す人々」は回想記の傑作といわれる。
明治初めは輸入品の毛糸が銀座の表通りで売られていた。毛糸輸入の元祖は<銀座の大久保彦左衛門>こと三枝与三郎。彼はどのようにしてモダンな商売を始めたのか。
写真: 『京浜実業家名鑑』(国会図書館デジタルコレクション)
三枝 与三郎 (さえぐさ よさぶろう)
1843天保14年、山梨県東山梨郡岡部村字松本の素封家に生まれる。先祖は武田家の家臣、父・英作の第3子。長男・清五郎は学問好きで早くから東京に、のち開成学校教頭を務め、前島密・神田孝平らと友人であった。
次兄は他家に養子(夭逝とも)、そのため三男の与三郎が家を継ぐことになり農事に励んだ。
1861文久1年、18歳。東京に出て一働きしたいと考えるようになった。
1867慶応3年、24歳。東京への思い立ちがたく、親戚会議の席で志をのべたが、戸主であるから親戚故旧誰一人賛成しない。しかし、決然として「たといどんなに困窮しても、諸君の助けを求めるようなことは決して致しません」と一人、絣の単衣一枚に編み笠を被り、3両を握りしめ家出同然に江戸へ向かう。
同郷の者が四谷の旗本・戸田家に仕えていたのでそこを頼った。戸田家で働きはじめて4ヶ月、長兄が面会にきた。兄はイギリス公使館書記生のアーネスト・サトウ(のち公使)からボーイの世話を頼まれ、与三郎に勧めにきたのである。与三郎は3両2分の給金で公使館のボーイとして働き、やがてサトウの信用をえる。一説には、幕府麾下の士、兼ねて知る平田作之進の縁で、サトーに邦語を授け信頼する所となりともいう。
1868慶応4年~明治1年、戊辰戦争。維新の大変革に際し、サトウら公使館員は難を避け神戸に赴くが、与三郎も付き従った。神戸では陣屋に仮住まいするが、そのおり与三郎の機転で陣屋に保存されていた味噌・米・醤油などを食料として寄宿生活を始めた。やがて、世の中がおさまり江戸に帰ると、与三郎は慰労金として100両もらう。
1869明治2年、資金を得た与三郎は、かねて懇意の小原という人に「西洋物の商いをしたい」と相談すると、「築地の居留地がいい。そこの亀屋という差配人に空き家を紹介してもらうよう」勧めてくれた。与三郎はサトウに気に入られていたが、小原に後を頼み、黙って公使館を去る。
同年、横浜に赴き古洋服・古靴、諸雑貨を仕入れ、小舟に積んで築地本願寺の裏手につなぐと亀屋を訪れた。空き家はなかったが、亀屋の店先を借りて商売をはじめた。屋号は「伊勢屋」、商売上「唐物屋」(とうぶつや)と名乗り、1年半で約2千円儲け、商売を拡張する事にした。
1872明治5年、銀座に大火発生。江戸城の兵部省の屋敷から出た火は春の強風に煽られ、日本橋辺りから、築地の外国人居留地に隣接する銀座を完全に焼いてしまった。与三郎も焼け出された。政府は大火で焼け出された人々に商店として払い下げるため、国家プロジェクトとして銀座煉瓦街計画を進めた。
銀座煉瓦街は、大蔵省雇いのトーマス・ウォートルス設計で、新橋がターミナルステーション、銀座が煉瓦街の入り口という立地には恵まれていた。しかし、窓は小さく、風は通らない、しかも生乾きだったためにカビが繁殖し、家賃も馬鹿高いことから、出店しようとする者はなく、結局、役人や福沢諭吉が無理矢理買わされるはめになった。
その一方で、街の様子をおもしろがり、洋風物が似合いそうだと新商売で一旗揚げようという、威勢のいい商人たちがどっと入り込んだ。その一人が、与三郎である。
3階建ての煉瓦街の一店舗を使い、金看板の三枝商店を構えた。毛糸などを直輸入する商売を始め、「伊勢屋に行かなきゃ毛糸はない」という毛糸独占商売が評判を呼んだ。汽車が開通し、商品は珍しさも手伝って、飛ぶように売れた。また、時運を察してビール・葡萄酒なども販売して繁盛する。
1875明治8年、再び火災にあい、遂に現今の地に転じて今日に至る。本店の北隣はすなわち小売店にして築地1丁目17番地はその別邸。
1876明治9年、銀座の地を買い実業界に名乗りをあげる。営業所・銀座3丁目7番地。
――― 三枝が銀座人以外に名の顕れなかったのは、帳場格子に隠れて社会的に顔を出すのを好まなかったからだが、出シャばりではないが遠慮する質ではなかったので、区政町政公私大小何事にも一肌脱いでも老巧と辣腕と信望と財力で築きあげた潜勢力は*岸田吟香に過ぐるものがあった。
文明開化の急先鋒を任ずる新市街の鋭気に加えて、生国の甲州っ児の鼻梁(はなっぱしら)の強い負けじ魂を着き交ぜた翁の向背は敵にも味方にも恐ろしいものであって、翁はいつしか銀座の親分株に仕立てられ、侠名硬骨は銀座の大久保彦左衛門として鳴り響いた ・・・・・・(中略)
三枝というよりは毛糸の伊勢屋といったほうが、昔の銀ブラ党には早解りがする。伊勢屋の屋号は昔のモガには馴染みの深い名で、毛糸の輸入の元祖として、伊勢屋と毛糸とは離れられない関係があった・・・・・・ 毛糸の編み物の流行は伊勢屋の輸入に濫觴したのである。そのころは伊勢屋の外に取り寄せるものはなかった(以上、「魯文の明治」)。
“明治のジャーナリスト・事業家、岸田吟香”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/03/post-5df9.html
1887明治20年、東京府会議員に推される。
――― 僅々65金(100両の残りか)の資を基礎としてこの隆運を見る。その隆盛の功また偉ならずや。京浜銀行を創立して取締役に推され、また浅田銀行を経営して取締役となり、府会議員に推され 東京商業会議所議員として令名あり。齢61(『京浜実業家名鑑』)。
参考: 『無資奮闘成功実歴・最新実業家立志編』1910実業力行会 / 『魯庵の明治』1997講談社文芸文庫 / 『京浜実業家名鑑』1907 京浜実業新報社 / 文祥堂フォーラム
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