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2017年10月14日 (土)

武道女子、ナギナタ師範・園部秀雄(宮城県)

 ブログ記事。誰にしようか迷うと県史や地域史を見るが、そこに人物史があるといい。無名でも優れた人物に出会え、識るとうれしい。ところで、そうした人物編は男子がほとんどだが気にしたことがなかった。ところが、『宮城縣史29・人名編』の男性編・女性編、男子に劣らず女子も多く登場し、女性編にも多くの頁を割いていて珍しい。
 それで、男子は外で活躍、女子は内を守るという風が今でもあり、自分も専業主婦で満足していたのを思いおこした。子育てや趣味を楽しみ今があり悔いはないが、志ある女子には活躍して欲しいと願っている。間近に迫った2017年秋の衆議院議員選挙、女子の当選者が多いといい。
 さて、「県史」発行時1986昭和61年、宮城県はよほど進んでいた!それとも編者の意向で女性編が充実!気になって奥付を見ると、財団法人宮城縣史刊行会代表者・津軽芳三郎とあり、著書もある人物である。
 ともあれ、充実の女性編から今風にいえば武道女子、薙刀名人園部秀雄を抜き出してみた。ちなみに、「秀雄」は武道上の名で、本名は「たりた」。

          園部 秀雄  (そのべ ひでお) 

 1870明治3年3月、陸前国玉造郡一栗村上野目(宮城県岩出山町)に生まれる。
    仙台藩士・日下陽三郎の6女。「たりた」という名は、子沢山でもう足りた十分であると名付けられたようだ。父は松前家の出で、日下家の祖母は*林子平の姪にあたる。生まれたのは由緒ある家柄であった。
   *林子平: 江戸後期の経世家。『海国兵談』を仙台で自費刊行。対外軍備の急務を論じ、世人に警告するも、蟄居となり版木を没収され <親もなし妻なし子なし版木なし金もなけれど死にたくもなし>と詠み、不遇のうちに死去した。

 1871明治4年、廃藩置県により辛くも生活を維持する有様で、「たりた」も他家に奉公に出され、苦難の中に成長した。
 1886明治19年、古川(宮城県中北部)で興行された仙台の佐竹鑑流斎夫妻の真剣薙刀試合(直心影流撃剣興行の薙刀術)に魅了されたたりたは、父に願って佐竹夫妻に入門。全国をめぐりつつ薙刀の修業に励んだ。
 1888明治21年、免許。直心影流の印可を許され秀雄と改名。やがて興行剣術の中の難行苦行と厳しい技術の錬磨をかさね、至妙の域に達した秀雄の薙刀の向こうに廻る相手とてはなく、その名が全国に知れわたった。
 1894~1895明治27~28年、日清戦争。
 1896明治29年、日清戦争後の興行剣術衰退を挽回すべく、一座の青年剣士・吉岡五三郎と結婚したが、女児を遺して病没した。のち、再婚。
   ?年、  師のすすめで神戸光武館道場主・園部正利と再婚。
 1904明治37年2月、日露戦争開戦。
 1905明治38年9月、アメリカの斡旋で講和が成立(ポーツマス条約)。

   大正時代。 直心影流教士。兵庫県神戸市東川崎町6丁目(大正武道家名鑑より)
 1918大正7年、上京。女学校で体育として薙刀を教えることになり、東京成蹊女学校(校長・中村春二)をはじめとして、実践女学校(校長・下田歌子)、女子学習院常磐会女子商業学校二階堂塾などで薙刀を教えることになった。
    のち、学習院常磐会の嘱託となって、竹田宮・北白川宮・閑院宮妃殿下をはじめ各宮家に教授し、皇后陛下(昭憲皇太后)にもご覧に入れた。とくに常盤会長は熱心で、有事のために手許金一万円を託された。これがのちの真影流薙刀術道場・修得館の基金となる。
 1926大正15年5月、大日本武徳会より薙刀術範士の称号。東京市世田谷区松原町3丁目806番地。

 1936昭和11年、修徳館をもうけ、薙刀教院養成所を併設した。
 1941昭和16年12月8日、日本軍、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃、対米英宣戦布告する。
 1945昭和20年8月14日、ポツダム宣言受諾回答する。9月2日、降伏文書調印。
 1962昭和37年、紫綬褒章。「早くから薙刀の技術に励み、よく高度の技術を修め、又これが普及指導につとめて斯道の発展に寄与し、事績まことに著名である」として授与され、内閣総理大臣・池田勇人、女子体育振興会長・下村壽一から表彰された。
 1963昭和38年9月、94歳の高齢で死去。法名は「紫瑞院彰勲妙香日雄大姉」
    秀雄は薙刀道の権化といわれたが、常に薙刀を通じ女子の武道精神の日常化を叫び、四六時中の生活、炊事・洗濯からあらゆる仕事が薙刀道の実践で、生活そのものを相手と思って修錬することであると教えた。

   参考:『宮城縣史29・人名編』1986宮城県 / 『武道範士教士錬士名鑑』1937大日本武徳会本部雑誌部 / 『大正武道家名鑑』村上晋1921平安考古会 / 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂

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