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2017年10月 7日 (土)

英国公使館員アーネスト・サトウが信頼する会津藩士・野口富蔵(福島県)

   東海道、掛川の宿。深夜、イギリス公使館員サトウ一と画家*ワーグマン一行は抜き身をもった暴漢らに襲撃され、あわやのとき日本人従者野口富蔵は

 ――― 私は刀を振りかざし一喝して彼らの前面に躍り出たところ、その勢いに驚いた彼らは一斉に向きを変えあわてて姿を消した。と、背後で物音がしたので振り返ると、刀を構え今にも攻めかかろうとした男がいた。われわれはこの敵と直面し、私は左手に拳銃をかまえて、これがこわくはないかと威嚇したところ、男は怖れをなしたようで走って戸口をでていった。英国人二人を殺害しようと企てた暴漢らは、背の高い偉丈夫な侍が脅威の武器を持って立ちはだかるとは思いもよらなかったらしい。

*ワーグマン: イギリスの画家。明治元年来日。風刺雑誌『ジャパン・パンチ』を刊行、日本の風俗を描く。

 ペリーの黒船来航、日米和親条約、下田・函館を開港、日英和親条約、長崎・函館を開港、ハリス下田着任、勝海舟ら咸臨丸でアメリカへ、イギリス公使パークス着任、高輪・東善寺の英国公使館浪士襲撃・・・・・・開国日本は大変続き。そうした激動の渦中に、イギリス人アーネスト・サトウ19歳が通訳生として自ら望んで来日。日本語をよく身につけたサトウは、パークス公使の側近として条約批准の歴史的勅書を英訳するなど立派に役目を果たす。サトウが暴漢に襲われて活躍した侍は野口富蔵といい、英語を身につけるため使用人になった会津藩士。

          野口 富蔵

 1841天保12年、会津藩士・野口成義の次男として天寧寺町で生まれる。幼名、彦次郎。 名、成光。      
  1860万延元年、 藩命により英語を学ぶため箱館の英国領事館に赴き、英国領事ヴァイスに学ぶ。
       当時、*会津藩の東蝦夷地領有のため蝦夷地には200人ほどの藩士が派遣されており、若松城下から箱館へは比較的容易に「勉学」ということで出国できた。
    会津藩の東蝦夷地領有: ちなみに秋月悌次郎は蝦夷地代官となり一家をあげて斜里に。  南摩羽峰は、樺太警備・東岸の幕府領代官を務めた。やがて戊辰の戦いとなりで二人とも京へ赴く。

 1865慶応元年秋、英国公使館書記官ーネスト・サトウの秘書兼使用人として同居。サトウが各地へ移動する際には常に随行。
 1866慶応2年12月、英国公使パークスはサトウに対し、イギリス船アーガス号で日本南部の沿岸を回って瀬戸内海経由で、各地の実情を収集してくるように命じた。もちろん富蔵もサトウの従者として同行。
 1867慶応3年1月2日、サトウは鹿児島を訪問。西郷隆盛と会談。生麦事件の報復として英国艦隊が鹿児島を砲撃した薩英戦争からほぼ4年後である。

    ?月、イギリス船、瀬戸内海の兵庫港に至る
      ――― サトウは、あらかじめ日本人従者・野口富蔵の紹介によって、幸便にも当地の何人かの有力者の家を訪ねることができた。野口は武勇を尊ぶ会津藩の出身であって・・・・・・当時、会津は京都御所の警護を任ずる栄誉が与えられていた。サトウにとって会津藩士をそばに置いていたことでかなり役に立った。
 野口富蔵は、サトウの日本人従者の中で、サトウの最後を看取った本間三郎と並んでサトウの信頼が最も厚かった。
Photo
 富蔵はまた、藩主の京都守護職就任で上洛していた梶原平馬・倉澤右兵衛・河原善左衛門らをサトウに引き合わせ、英艦バジリスク号の見学を手配した。

    写真(『アーネスト・サトウ伝』p76)。
 大坂視察の時に浪花心斎橋北詰塩町の写真師・中川伸輔によって撮影されたサトウ一行(12月17日サトウ日記)。最後列・富蔵。前列左・サトウ

 

 

 

 1867慶応4年~1868明治2年、戊辰戦争。富蔵の兄・野口九郎太夫は北越戦線から籠城戦を戦い抜き、開城の際に城の明け渡し人の1人となっている。弟・野口留三郎は彰義隊に加わり上野で戦死。伯父/野口四郎三郎は、白河で戦死。

 1869明治2年、富蔵はサトウとともにイギリスに渡り、サトウから援助を受けロンドンの大学に入学。このころ勉学と共に機織り業を学んだらしい。
    同年、兵制視察で訪英の西郷従道らは、すでに日本人の大学留学生がいるのに驚き、西郷の指示で翌年から政府の国費留学生となる。
 1870明治3年11月29日、太政官文書 「元会津藩野口富蔵・岩瀬谷亀次郎、英国留学申付候。留学生同様学費」
 1872明治5年、日本から最初に消費組合発祥の地ロッチデールを訪れた人物は、会津藩士・野口富蔵と土佐藩士・松井周助(工部省理事官随行)。

   ?年 帰国、内務省出仕。
 1874明治7年9月5日、工部省出仕。「*青森県士族野口富蔵ニ付御問合之趣致承知候間其英国在留費生ニ右之度由一死壬申年当省理テ及語月ニ被仰付候ナ如大件事務局ヨリ達右之候間ニテ支給共・・・・・・此段及イ回答候也 伊藤博文工部卿 山縣有朋陸軍卿殿」。
     *青森県士族: 弘前藩・七戸藩・八戸藩・黒石藩・館藩・斗南藩→ 弘前県→ 青森県

 1875明治8年、内務省出仕。京都府に出張を命じられ西陣織の改良に尽力する。
 1879明治12年5月29日、京都府より海軍省宛
       「織錦帖代価表の件京都府より進達他1件」 京都府府五等属・野口富蔵東上、御談シ相成候職錦帖代価表別冊差出申候条御落手有之度候也。 6月6日、 織錦帖代価表別冊之通京都織殿ヨリ差廻候ニ付為心得下附候也、海軍長官 主船局長宛

 1881明治14年、外国事務御用掛十等属判任官。
 1882明治15年2月20日、改正職員録「野口富蔵 青森 五等属」
 1883明治16年、兵庫県庁に在任中に急逝。享年42。墓は神戸追谷墓園。

   「サトウ伝」註に、野口富蔵は帰国後、新政府に出仕したが軽微な役職とある。洋行帰り新知識なのに重用されなかったのは、おそらく明治前期、薩長の藩閥政府時代にあって賊軍とされた会津藩出身もありそう。せめて明治半ば、更にはサトウが駐日全権公使に栄転、再来日するまで生きていたらもっと活躍できただろう。42歳の死はいかにも惜しい。

   サトウや富蔵によりイギリスに親しみをもっが、折しも、日系イギリス人作家カズオ・イシグロ氏ノーベル文学賞受賞のニュースが飛びこんできた! だいぶ前、イシグロ氏原作の映画<日の名残り>を見て外国映画にしては何か余韻が・・・・・・原作があるのも知らず作家も知らなかった。
 ちなみに2017年秋の目出度いニュース!野口富蔵がアーネスト・サトウに連れられロンドンを訪れてから148年、夏目漱石のイギリス留学から117年後にあたる。 
 
    参考文献: <平成17年度一橋大学附属図書館企画展示 ・『ロッチデールを訪れた二人のサムライ』> / 『アーネスト・サトウ伝』B・M・アレン著・庄田元男訳1999平凡社 / <会津の著名人> http://www.aizue.net/siryou/tyomeijin-no.html /  <野口富蔵の引用公文書>アジア歴史センター 

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