「新聞は天下の公器」気骨の新聞人、後藤清郎(岩手県)
雨の日、風の日、これからは雪の日だって届けられる新聞はありがたい。ところが近年、新聞をとらない家、読まない人がふえているようで残念、勿体ない。日々の愛読紙とは別に旅先で読む地方紙もまた旅の楽しみを増すし、どこに行っても新聞があるといい。
『岩手の先人100人』で<反権力貫いた気骨の新聞人、後藤清郎>を読み、当たり前のようにある新聞の大切さ、発行し続ける大変さに改めて思い至った。新聞には不偏不党、不羈独立を求めるが、新聞も事業、発刊の経緯や出資先など考えれば簡単ではないのだ。しかしそれでも、事実に迫る記事を読みたい。
とはいえ、記者も人の子、しがらみもあり生活もあるから信念を貫くのは容易ではない筈。争いに巻き込まれ、進退を迫られたらどうする?そのとき、岩手の新聞人・後藤清郎は、仲間と「新聞人の手による新聞」を創刊したという。
後藤 清郎 (ごとう せいろう)
1889明治22年1月、岩手県稗貫郡石鳥屋町、後藤直助の三男に生まれる。
?年、 好地小学校・片寄高等小学校
?年、盛岡中学校入学。明治13年開校で県令・島惟精が開業式臨場。
1908明治42年、盛岡中学卒業。卒業生は人材豊富で著名人を輩出たのを誇りにしている。なお進路は日清・日露の時節柄もあってか、軍人将卒が少なくない。文芸方面では野村胡堂・石川啄木・金田一京助、他に原敬などがいる。
1912明治45年、東京帝国大学入学。
1917大正6年、 政治学科卒業。
『内外教訓物語』編著。科外教育叢書刊行会・シリーズ名科外教育叢書
弘前歩兵第三十一連隊、入隊。
1918大正7年、報知新聞社に入社。 9月6日、鹿児島県出身、村原国子と結婚。
海軍省記者クラブ「黒潮会」詰めとして記者生活のスタートをきる。以来、海軍に知己を多くもち海軍通として知られる。 9月29日、原内閣成立。
1919大正8年、東京日日新聞(のち毎日新聞)入社。
1923大正12年7月、郷里の『岩手日報社』の主筆に迎えられる。
東北地方に先がけて夕刊2ページを発行、朝刊に市内版制を採用して読者サービスをはかった。また、中央紙仕込みの進歩的な論陣を張った。
1924大正13年5月10日、第15回総選挙で護憲3派(憲政会・政友会・革新倶楽部)が大勝。この制限選挙最後の選挙で、有名な「田子・高橋の一騎打ち」に巻き込まれ、記者5人と共に未決に収容されたが、のち全員無罪となった。
この選挙で岩手日報は原敬の遺鉢を継ぐ政友会の直系として高橋是清を支持し、郷土出身の田子一民を批判する立場に回ったのである。終始、特権・官僚政治反対をつらぬく後藤本来の主張によるものだったが、選挙が激化するにつれ、報道ぶりを非難され、ついに未決に入る事態になったのである。記事。
9月、「軍閥の横暴」 ―――わからないくせに政治にくちばしを入れる悪癖をもった軍閥の徒が、国家の安危を独りで背負ったような顔付きして―――と、海軍に理解があった後藤だが、陸軍には絶えず批判的であった。
12月、「普選と無産党」 ―――無産者が選挙権をもつことによって、政治はいよいよ民衆政治に進む・・・・・・ 国民はよろしく政党を超越して、厳正公平に民衆の代表者を選び出すことでなければならぬ。徒らに政党に媚び、金権に阿諛して代議士を選出するに於いては、いつまでたってもわが憲政が進歩することは出来ぬのである。
1926大正15年1月、岩手日報陣営は、社長に大田孝太郎、編集は後藤主筆以下30名、営業20名、活版工場47名、鋳造部を加へて機械部は10名、その外に小使・庶務の給仕を加へ110余名であった。
この年12月、宮沢賢治『注文の多い料理店』刊行。
1927昭和2年、後藤の提唱で『岩手年鑑』発行(国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる)。
9月24日、普通選挙による初の県議会選挙。
1928昭和3年、後藤、岩手日報新理事となる。10月、岩手県で陸軍特別大演習。
1930昭和5年8月、ドイツ飛行船ツェッペリン伯の飛行船が飛んできて霞ヶ浦に着陸。後藤は「こんなことで驚いてはいられない。われわれの前途にはテレビジョンという怪物も迫っている」。2年前に高柳健次郎がテレビ放送の公開実験を行っている。
1932昭和7年、郷土部隊、第八師団慰問のために満州に渡る。
1933昭和8年3月、三陸大津波、被害甚大。
1934昭和9年、岩手日報の行事として、姫神山縦走スキーを設定するなどスポーツ振興にも理解を示す。
1935昭和10年、岩手日報60周年記念式。県知事以下の政財界人を前に理事として後藤は、式辞で「新聞は天下の公器」と述べる。
さて、昭和に入って農村不況の波に襲われ銀行パニックがおこり、岩手の経済界は混乱の極に達した。当時の岩手日報もそのあおりを受けて経営が難しくなっていた。
1937昭和12年、旧盛岡銀行系の財界人たちが経営権をにぎって岩手日報に乗りこみ、編集と営業の間に確執がおこる。二派に分かれて対立、後藤は社員有志の先頭に立って抵抗する姿勢を見せた。12月22日会社側は、後藤ほか97人の抵抗社員を馘首を宣告。
後藤らは師走のちまたに追い出されたが、幸いなことに朝日新聞の販売店を経営していた盛岡中学の同級生・川村誠三が援助の手を差しのべてきたのである。後藤らは川村店の2階に集まり、「実のない味噌汁をすすり、ソリで巻き取り紙を運び(後藤日記)」、新聞創刊の作戦をねった。
1938昭和13年1月1日、「新岩手日報」を発刊。
この年、岩手県下一帯に降雪、被害多し。8月、NHK盛岡放送局開局。
用紙メーカーや広告主は「旧日報」に義理立てして取引に応じず、後藤にとっては慣れない資金繰りなど多難な船出であった。しかし、2ヶ月後には、「旧日報」の方が経営難で廃刊され、「新岩手日報」が県民の温かい同情により苦境を脱して勝ち残る。しかし、後藤は新聞人としてすぐれていたが経営の才がなかったかのか、創刊時の苦闘がたたったかして健康をそこねる。
1940昭和15年、『盛岡中創立六十周年誌』に<盛中六十年史>を寄稿、岩手日報にも掲載したらしい。肩書きは新岩手日報、専務取締役。その文からは、盛中卒業生の活躍や動向を数々伝え、また息子の盛岡中学入学を喜ぶなど盛岡中学を誇りにしている。
1941昭和16年12月8日、日本海軍の真珠湾攻撃、陸軍のマレー半島上陸とともに英米に宣戦布告。日本は太平洋戦争に突入した。
1944昭和19年4月、敗色濃厚となった折しも、旧知の海軍大将・野村吉三郎の県公会堂における講演会に立ち会い、その直後、倒れた。直ちに、日赤病院に入院したが、病状は長引く。
1945昭和20年2月、56歳の働き盛りで惜しまれつつ死去。
――― 死の直前まで新聞のことを思ったらしく、「入院80日、朝に夕に頭を離れざるは、社のことである」(7月14日アサ)と病中日記に書き、また毎日の戦局を案じて、「内南洋の形勢逼迫をゲラでみる」とも書いている。海軍通の後藤には19年夏ごろすでに敗戦がみえていたようだ(『岩手の先人100人』(大友幸男)。
参考: 滋賀大学経済経営研究所“近江商人進出地・盛岡の金融破綻”小川功2000 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8732445/1?viewMode= / 『岩手の先人100人』1992岩手日報社 / 『日本史年表』1990岩波書店
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