第六師団の街だった熊本(熊本県)
昨年の新聞記事:[熊本城の大将健在]熊本城の別名、銀杏(ぎんなん)城の由来となった加藤清正が植えたというオオイチョウ、高さ約21メートルが見ごろを迎えた。でも城内は一連の地震で被害を受け一部を除き立ち入り禁止、一般の観光客は見学できない(2016.12.13毎日)。
熊本城の復興には時がかかりそうだが、雄々しい姿が再現されるのはまちがいない。その熊本城、これまで焼かれたり軍隊の駐屯地になるなど戦と深く関わっている。
1871明治4年4月、政府は小倉に西海道鎮台本営を設けて、熊本・佐賀の二藩よりそれぞれ歩兵一大隊をださせ博多と日田に分営をおいた。廃藩置県直後8月西海道鎮台を廃し、熊本に鎮台本営、第一分営を広島、第二を鹿児島においた。そのせつ二本木の* 白川県庁に鎮台をおき、県庁の事務は権大参事・有吉与太郎の邸に移した。
*白川県:熊本藩~熊本県~M5.6.14白川県・・・・・・M9.2.22熊本県。
1873明治6年1月、鎮西鎮台を熊本鎮台と改め熊本城に移す。
1876明治9年、廃刀令公布。これを機に維新の変革など不満をつのらせる士族が少なくなかった。
10月24日、神風連の乱おこり170人余が蜂起。熊本鎮台を刀剣のみで奇襲、放火。これが引き金となって秋月の乱、萩の乱がおこり、征韓論にやぶれ下野した西郷隆盛の動静が注目された。
1877明治10年2月、西南戦争。大雪のなかを私学校軍が北上を開始。
2日遅れで西郷も熊本へ向かう。西郷をいただいた反乱軍は3万余、熊本城を攻めたが容易におちない。そのさい、籠城をきめた熊本鎮台は城下を焼き払い、あやまって天守閣を焼いた。激戦をくりかえして八ヶ月余り、西郷軍は全滅。
この戦争で反乱軍の戦死者は約5000人、戦傷者は約1万人。政府軍の戦死者は6843人、戦傷者9252人、軍夫の戦死、死傷者の数はわからない。戦争で荒らされた耕地がどれほどの規模か不明、一般人の死傷者321人、被災家屋は1万9360戸。
1885明治18年5月、熊本鎮台に歩兵第13連隊・歩兵第23連隊が配備。あわせて歩兵第11旅団が編制される。明治15年、熊本県の壮丁6627人のうち陸軍徴集人員は2958人(44.6%)であったが、この18年には壮丁1万365人のうち6900人(66.5%)へと増加した。
1888明治21年5月、熊本鎮台は第6師団となる。
対外戦争を主眼として鎮台を師団と改変、編制が拡充された。熊本城内に師団司令部・歩兵第13連隊・輜重第6大隊本部など。花畑町に歩兵第23連隊・大江渡鹿(とろく)に工兵第6大隊・山崎町に騎兵第6大隊。備前屋敷一帯に砲兵第6連隊が駐屯。軍都熊本の基礎が整備される。
1894明治27年、日清戦争開始。
第6師団の一部は、第1・第2師団と共に第二軍(大山巌軍司令官)に編制され出征。
1895明治28年1月、大連に上陸後、威海衛攻撃に加わり、熊本出身兵298人が戦死または戦病死の犠牲を払った。6月、凱旋。
1902明治35年11月、熊本で天皇を迎えて陸軍特別大演習。
天皇通過の道筋に1万8000人余が動員され、熊本の総力戦態勢がつくられる。
1904明治37年、日露戦争。
熊本第6師団は6万2000余の兵を大陸に送り8月、遼陽会戦で3000人をこえる死者をだした。この戦争で日本がとらえた俘虜は6万7000余にのぼり、そのうち5000人余を熊本が引き受けることになる。第一陣481人が熊本駅に到着後つぎつぎにやって来、熊本は6000人を超す俘虜を収容した。
熊本県と熊本市は繰りかえされる戦争のなかで、戦時体制をささえる都市として成長してきた。しかし、市のど真ん中に総面積8万2000坪に及ぶ軍隊施設が、経済や住民の生活のうえで阻害要因になった。この問題を市会がとりあげ許可願いをだすなどし順次、軍隊施設の移転が実施された。軍隊の市街地からの移転は熊本市の発展の基礎となる
1907明治40年、最初の交通機関、熊本軽便鉄道が安巳(やすみ)橋から水前寺まで走る。
――― 明治末期から大正初期までの10年に満たないわずかな期間だが、赤門の前を玩具のように小さな蒸気機関車が一両だけの客車を引いて通っていた。小馬力のために上り坂では乗客が下りて皆で押したらしい。蒸気機関につきものの煤煙は、市内では随分と嫌われたそうだ。それでも最盛期には熊本市内から大津町までの路線を運行していた。
1914大正3年8月、久留米の大8師団と熊本の第6師団に動員命令が下った。
9月、青島占領で日本軍はドイツ人4689人を捕虜にした。これに先だち陸軍は熊本の第6師団にドイツ兵俘虜収容の準備を命じた。準備が整わないうちに一陣432人が到着、以後、五陣に分かれ結局786人が送られて来た。俘虜収容は県物産館集議所とその付属施設ではたりず、寺院9ヶ所、米穀検査所・県農会事務所に収容した。
1915大正4年6月9日、官報:熊本俘虜収容所を閉鎖(陸軍大臣・岡市之助)
1931昭和6年9月18日、柳条湖事件を機に15年戦争はじまる。
1937昭和12年7月7日、盧溝橋事件。第6師団は27日、動員令をうけ、釜山に上陸。
以後、転戦して太平洋戦争終結に至るまで26万9848人の兵士が動員され、中国各地・ソロモン群島・豪州・フィリピン・ソ満国境・硫黄島・ビルマ(現ミヤンマー)・沖縄と熊本出身兵は戦い、傷つき、あるいは玉砕した。陸海軍あわせて6万人を越える兵士が戦地で命をなくしたのである。
1942昭和17年4月18日、熊本市に最初の空襲警報発令。アメリカ軍による本土空襲があったがこのときは熊本に爆撃機は飛来せず、警報は解除。
1944昭和19年11月21日、熊本市柿原にB2980機が飛来、50キロ爆弾10数発をおとした。熊本県下最初の空襲である。
1945昭和20年7月1日、サイパンを飛び立ったアメリカ軍爆撃飛行団が天草・宇土半島を越えて、熊本市上空に達した。154機のB29が1107.2トンもの焼夷弾を2時間かけて投下。市街地の三分の一が焦土と化し、約1万戸が罹災し、市街地住民約4万人が家を失った。実数は不明だが、約300人以上の市民が命をうしなった。
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このブログは幕末から昭和の敗戦までの人物がほとんどで、登場人物は戊辰戦争・日清日露・アジア太平洋戦争と幾多の戦争を経験している。ところが、筆者は孫が大学生という歳でも戦争を知らない。親世代は戦争で痛い目にあっているが伝わっていず、戦争は遠い。それって拙い、知ろうとしないといけないんじゃないか。『フランス現代史 隠された記憶』を読んでそう思った。
――― 一国の今は過去を抜きに語れない。華やかに語られることが多いフランスも例外ではない。第一次大戦の激戦地では現在も、不発弾と兵士の遺体で住めない村がある・・・・・・歴史に苦悩するフランスの姿を、多くの証言から紐解くルポルタージュ。
『フランス現代史 隠された記憶』に記されたフランスは、おしゃれなイメージはなく、全く違う国。しかも衝撃的な話ばかりで、悲惨、残酷な記憶には何度も目をつぶった。遠いヨーロッパの戦争のように思ったが、「永田丸の記憶――同盟国だった日本とフランス」などはじめて知ることばかり。正直どの頁も辛く重い、でも読まないと。隠された記憶を知れば、いかなる理由があろうとも戦争はダメとなる。
参考:/ 『熊本県の歴史』1999山川出版社 /『 熊本大学付属図書館報[東光原]no49』 /『熊本県の百年』1987山川出版社 / 『フランス現代史 隠された記憶――戦争のタブーを追跡する』 宮川裕章2017ちくま新書
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コメント
ダメ、というか避けたい事態の本質なのは『戦争』ではなく、『大勢が苦しむ状況』だと考えています。無論戦争が起これば大勢が苦しむのですが。戦争はダメ!と言うお題目だけが一人歩きで流行して、自国の防衛力を無闇に削ごうとする無知な平和主義が日本で横行している。
それに毎年二万人もこの国で自殺があるようじゃ全く平和とは思わない。あるものにとっては地獄、あるものにとっては天国、それがいつの時代にも同じだと言うことも知っておいて欲しい。
投稿: おせち | 2019年6月25日 (火) 09時35分