バリ人のためインドネシア独立のために、三浦襄 (宮城県)
空気が乾いて富士山がきれいに見える。寒いのはいやでも家並みの向こう、ビルの谷間に富士山が見えると気分がいい。富士は遠くも近くも、汽車の窓から見ても姿がいい。各地の「○○富士」も頷ける。海外にも日本人が名付けた○○富士あるかな。たとえば、インドネシアとか。
だいぶ前にバリ島へ旅行した時、インドネシアの人々に慕われた日本人、三浦襄を知った。でも、手許の人名辞典になく書籍も見当たらず、ちょこっとだけ書いた。
“三浦襄、インドネシア独立のために”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2010/10/post-03bc.html
埋もれているのは惜しいと思い、このほどネットを検索して纏めてみた。引用した記事・研究に感謝しつつ、文末にアドレスを掲載。そちらもどうぞ。
三浦 襄 (みうら じょう)
1888明治21年8月10日、日本基督一致教会の牧師の次男として宮城県仙台で生まれる。
?年、 秋田中学(秋田県立秋田高等学校)に進学。
在学中は、経済的状況の厳しさから牛乳配達のアルバイトをして過ごした。
1905明治38年、父のハワイ日本人教会赴任に伴い東京都港区に引っ越し、明治学院普通部に編入。
1908明治41年11月、明治学院中退。
「商売」と「伝道」を目的とした南洋商会(堤林数衛)に入会。
1909明治42年4月、神奈川丸で横浜出航。堤林ほか12名とにジャワ島スマラン到着。手まね口まねで、売薬、雑貨の行商。
11月、青年数人と南洋商会を去る。その後、バリ・ロンボック・スラバヤなど流浪(視察とも)。
1912大正1年12月、セレベス島マカッサルに移り、雑貨・小売業をはじめる。
1916大正5年、帰国、結婚。ところが、苛酷な生活状況の中で妻は過労で死去。
1918大正7年、鶴間春二と共同出資で、マカッサルに「日印貿易商会」開業。
商会は支店・出張所があり、第一次世界大戦後の好景気で経営は順調であった。
セレベス島マカッサル日本人会の理事に就任。
1925大正14年、三浦が日本に帰国中、共同経営者の鶴間が強盗に襲われ、資金を奪われ殺害される。そのせいで日印貿易商会解散。
1928昭和3年、再婚。
1929昭和4年、トラジャで岸将秀と現地トラジャ人を20名雇いコーヒー園を経営。なお、三浦はキリスト教徒で、当時のトラジャはキリスト教がかなり普及していたからこの地を選んだとも考えられる。
1930昭和5年11月、世界不況のあおりを受けて失敗。
いっさいの家事道具を山中に捨ててバリ島に移る。この頃のバリ島に、日本人は三浦を含め3家族しか定住していなかった。一家はデンパサールに居を構え、ガジャマダ通りの一角で自転車の修理業を始める。やがて、南洋浪人2人を雇いブレレン・クルンクンに支店を開業。
バリ人から「トコ・スペダ・トワン・ジャパング」(自転車屋の日本の旦那)として慕われた。
1941昭和16年、アジア太平洋戦争はじまる。三浦は開戦前後、日本に帰国。
1942昭和17年、召集され陸軍第48師団今村隊の随員として、再びバリ島サヌール海岸に上陸。
5月、バリから他の軍政地域への牛豚の移出が計画され、三浦はこれに参画する。
また、バリ畜産会を設立。 さらに、食品加工後の残骸から歯ブラシや釦の製造を行なう三浦商会を立ち上げた。これらの業務は、バリ人に委ねられ、三浦はそれを監督し、軍に対して責任を負う方式が採られた。
戦争の大義を信じていた三浦は、通訳や民政部顧問として、軍部と現地社会との仲介役として活躍する。
1944年昭和19年、三浦は病気療養のため日本に帰国。
9月、インドネシア独立を容認する小磯声明が出され、三浦もその実現に向けて動いた。三浦は、現地バリ人、とりわけ後にインドネシア独立後の初代バリ州知事となったイ・グスティ・クトット・プジャと親しく交わった。12月、再びバリ島へ戻る。
1945昭和20年8月14日、バリ島シガラジャで独立に向けた「小スンダ建国同志会」がプジャを代表として結成されると、三浦は日本人として唯一、この同志会に加わり事務総長に就任。バリ畜産会、三浦商会の経営を現地バリ人に委ね、シガラジャに出向いた。
8月15日、敗戦。三浦はしばらく身を隠すも自決の決意を胸に秘め、謝罪の旅を敢行。
9月6日、連合軍進駐が目前に迫るなか、三浦はプジャらに別れを告げる。
9月7日午前6時、日本の敗戦により解放の約束を果たせず責任を取り、首都デンパサールでピストルを撃ち自決。 次は遺書の一部、
――― この戦争で、我が祖国日本の勝利を念ずるためとは言え、私は愛するバリ島の皆様に心ならずも真実を歪めて伝え、日本の国策を押し付け、無理な協力をさせたことをお詫びします。今まで大きな顔をして威張りかえっていた日本人も明日からは捕虜として皆様の前に惨めな姿を見せるでしょう。彼等が死なずに屈従するのは、新しい日本、祖国の再建に尽くそうと思っているからです。死ぬのは一人で良いと思います。私が日本人皆の責任を負って死にます。
「三浦襄はバリ人のために生き、インドネシア独立のために死んだ」との墓碑とともに、デンパサール市のトゥガル・ベモ・ステーション近くの住民墓地に埋葬されている。
日本では出身地宮城県の護国神社に祀られている。
参考:
“世紀の自決/三浦襄”
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/ziketu-miura.htm
“セレベス時代の三浦襄”
http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/mks/miura.html
“丸メガネの人物史~日本編(学者・文化人)1885~1889年”
http://optomo.biz/jinbutsushi-gakusha-1880-2.html#miura-jo
“宮城県護国神社”
http://burari2161.fc2web.com/miyagikengokokujinjya.htm
<追記>
2017年11月27日
インドネシアのバリ島で、東部アグン山の噴火警戒レベルが再興レベルに上がり、日本国内の旅行代理店は、ツアー参加者の安否確認や現地の情報収集に追われた。空港閉鎖やバリ直行便が欠航。
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