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2017年11月11日 (土)

“わかやま歴史物語・希望を紡ぐ” (和歌山県)

 この秋、表題のオープン講座があった。伝記執筆中の主人公・山東直砥が和歌山出身なのと、「エルトールル号」や熊楠に興味があり参加した。いろいろな角度から和歌山を展開してみせてくれた。パンフレッの美景の数々に講座で知った歴史を重ねると余韻が感じられる。いつか行ってみたい。せっかくなので、ちょっと紹介。
 5回講座の最終日。早稲田キャンパス内のイチョウ並木の足元、銀杏がたくさん散らばっていた。友だちと一緒なら拾いたいけどビニール袋ないし、雨も降るし、いいや。
 大隈さんの銅像を後に都電の早稲田駅に向かった。都電は全線165円。安いかわりにゆっくり、のんびり。それが又いい。

             講座 わかやま歴史物語

  ① 100年越しの恩返―エルトゥルル号から継ぐトルコとの絆 (田中光敏)   
     講師は映画 海難1890 の監督。映像と相まって監督ならではの苦労や撮影秘話に興味津々。またトルコの人々と串本市(和歌山樫野崎)の人々との協力が時空を越え今に続く話、現地でのエピソードなど聞けて良かった。次は参考までに過去のブログと本の紹介。
     けやきのブログⅡ<2010.3.16 “トルコ金閣湾で釣り、谷干城と柴四朗”>

  『救出・日本トルコ友情のドラマ』(木暮正夫・文/相澤るつ子・絵 /アリス館)

2004年夏、アテネオリンピックで日本選手は大活躍。放送が深夜にかかり寝ぶそくぎみでも、国や人種、ことばもちがう選手たちが限界に挑戦する姿を見ないではいられません。試合をおえて握手、お互いの健闘をたたえあう場面がまた好いです。
 開催国ギリシャは日本からは遠いですが、『救出 日本・トルコ友情物語』のトルコはギリシャのおとなりです。折しも『日本-トルコ友好史展』が東京・銀座であり、ボスポラス海に停泊中のエルトゥールル号の写真もありました。

 1890明治23年9月、紀伊半島に台風接近、荒れた海に樫野崎灯台のあかりが一条。その夜、外国船が難破し岸に泳ぎついた人が、あかりをたよりに断崖をよじのぼり助けを求めてきました。手足にけがをし、ずぶぬれの男たちは日本人ではない。ことばもつうじないが、大島村の人々は救援に走り69人を救助しました。
 難破船はオスマン・トルコ帝国の軍艦エルトゥールル号でした。イスタンブールを出航して1年近くかかって横浜港に到着しました。日本は大歓迎、一行のうごきは連日、新聞をにぎわし、使節オスマン・パシャは皇居を訪問し明治天皇から労をねぎらわれた。
 滞在3ヶ月、エルトゥールル号は神戸港へ向かい、熊野灘をすぎたころ台風にほんろうされ、岩礁に乗りあげ船体が折れ、海底にのみこまれてしまいました。
 乗組員609人中、生存者69人、なんと540人も殉死したのです。生存者たちを日本の軍艦「比叡」「金剛」がトルコに送りとどけました。
 和歌山県串本町大島樫野崎には、トルコの費用で建設されたエルトゥールル号の慰霊碑がありますが、エルトゥールル号遭難事件は全国的には忘れられていました。しかし、トルコの人々は忘れていなかったのです。

 それから95年後、1980昭和55年 イラク・イラン戦争のさなか、トルコの飛行機が日本人を救出したのです。イラク軍がイランの油田地帯を攻撃してはじまった戦争。
 テヘランの住宅街にもロケット弾がうちこまれましたが、テヘランの日本人500人は日本から飛行機がきてくれず脱出できません。空爆の不安のなか、やってきたのはトルコ航空機でした。トルコの人は言いました「あのとき日本の人たちからうけたまごころを、みんながむねにきざんでいます」と。
 小学5、6年向けですが、大人にもおすすめです。日本の国際化が進むいま、みつめなおしたい感動のドラマ、読んでみませんか。   2004.8.1

 
  ②  異界・熊野を探る (金山秋男)
    世界遺産の熊野古道を歩いたが、何も思わず人の後について森を楽しんだだけだった。信仰や精神世界に無頓着、深い森を歩けて善かったで終り。そんな風では神秘な世界「熊野」に封印されたエネルギーを汲める筈がない。それでも熊野の森とその気配が心中深く焼き付いている。おそらくそこが、神々が棲まう自然崇拝の聖地、熊野だから。

  ③  昭和天皇の南紀行幸と南方熊楠―熊楠生誕150周年に寄せて (岸本昌也)
    「1929昭和4年6月1日、天皇を田辺湾の神島に奉迎し、御召艦「長門」で御進講を行った南方熊楠」
 熊楠にたいし日本国内からや欧米まで放浪、粘菌の研究というイメージしかなかった。また、熊野の森を守るため神社合祀に反対して活動したのがわかってよかった。森を守るってどういうことか判らなかったから。
 年譜を見ると研究・著述に加え活発に行動していて万能だと判る。明治期に早くも科学雑誌『ネイチャー』に論文が掲載されたりもしている。名は知られているが、活躍の割に広まっていないように見える。今回の講座で改めてそう感じた。
 最近知ったことだが、熊楠は明治に来日したイギリス人のF・V・ディケンズが日本の古典を英訳する助けをしていた。熊楠は日本より海外での評価が高いともいわれる。熊楠に国や文化、分野の壁はなかったようで凄い。

  ④  大名庭園・六義園と和歌の浦 (菊地義裕)
    東京都文京区駒込の六義園へ行ったことがあるが、和歌山の名勝地・*和歌の浦に縁があると全く知らなかった。講師の解説をたよりに鑑賞したなかに「鶴」を詠んだものが幾首もあり印象にのこった。
     *和歌の浦: 万葉の昔から人を魅了してきた文化歴史と絶景の宝庫で日本遺産に認定された。
 次は万葉の歌人、山部赤人の和歌。昔は日本のあちこちに鶴がいたとわり、自然と歴史の移り変わりを歌にすれば後世に伝えられるこもと教えてくれている。

     若の浦に潮満ち来れば 潟(かた)を無み 葦辺をさして 鶴(たず)鳴き渡る                                                  
 歌の意味は、和歌浦に潮が満ちてくると、干潟がないので、葦の生えているあたりをさして、鶴が鳴き渡ることだ。

  ⑤  海の熊野:古式捕鯨と海外出稼ぎ (櫻井敬人)
    講師が開口一番、C・W・ニコル『勇魚』をあげた。自分も読んで感動した思い出があり、たちまち鯨の話にひきこまれた。古式捕鯨のこと、鯨は82種類、鯨と周辺のエピソードの数々、どれも新鮮でおもしろかった。覚えている限り紹介したいが、そうもいかないので、項目をいくつかあげておく。折があったら、どこかで鯨の話を聴くとおもしろいかも。
 熊野灘の捕鯨文化に関するストーリー『鯨とともに生きる』が平成28年度、日本遺産に認定 / 熊野の古式捕鯨は「六鯨」 / 煌びやかな鯨船 / 明治中頃から盛んになった海外出稼ぎ / 青年の出稼ぎが増加して中堅青年の大半が町内から姿を消し・・・・・・ / 南極海捕鯨の盛衰と太地町のくじらの博物館の開館 / 紀州マグロ漁業を支えるインドネシアの男たちetc

 講師は、鯨の研究で名高いアメリカ・ニューベッドフォード捕鯨博物館顧問学芸員。そこで何年も研究していたという。鯨は日本だけでないのだ。『クジラ論争!』(岡島成行1993岩波)を読んだのを思いだした。忘れていたのは、鯨が食卓から遠ざかっているせいかも。 

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