黄熱病の研究・細菌学者、野口英世(福島県)
2017年秋、国立公文書館・外交関係樹立150周年<日本とデンマーク――文書でたどる交流の歴史>展をみてきた。展示は彩り豊富で見甲斐があった。
日本・デンマーク修好通商航海条約締結まで―――公文書館ならではの文書から歴史がかいま見られる。海底ケーブル敷設・酪農事業等など感心したが、なかでも、アンデルセン童話の翻訳初版本がたのしい。
日本で初めて出版されたアンデルセン童話『諷世奇談 王様の新衣裳』が、「裸の王様」とすぐに気付かなかった。
『マッチ売りの小娘』 表紙は今あるマッチでなく附木らしいものを手にした着物の女の子の絵。当時は未だ西洋文化に馴染みがなく、しばしば日本に置き換えて翻訳していたという。また「マッチ売りの乙女」じゃ年頃の娘になるから、小娘にしたのかも。少女は新しい呼び方なんだろうか。呼び名一つで時代が見え、文章はもっとかもしれない。アンデルセンの長編小説『即興詩人』森鷗外の名訳は文語体である。これも初版本が展示されていた。
アンデルセン(1805~1875)が活躍したコペンハーゲンに福島県に生まれの細菌学者、野口英世が留学したのを展示で知った。当ブログ、立派な事蹟がありながら埋もれている人物が主で、教科書に登場する有名人はでてこない。でもそうした有名人物・野口英世の展示を前に、火傷と黄熱病のエピソードしか知らないと気付いた。思えば、知っているようで知らない事ってたくさんある。これも何かの縁、野口英世をみてみる。
野口 英世
1876明治9年、猪苗代湖畔の翁島(猪苗代町)の農家に生まれる。幼名は清作。
農繁期で家族が仕事で外にいるとき、いろりに落ちて大火傷を負った。左手の指はくっついたままになり、周囲にてんぼう(手が棒のようだ)とからかわれた。父が大酒飲みで家は貧しく、母が働き、苦労して育ててくれた。野口は母親の苦労を思って辛抱し勉強もがんばった。その甲斐あって尋常小学校を首席で卒業。
?年、 高等小学校に進む。
猪苗代高等小学校首席訓導・小林栄(さかえ)や友人のの助力もあって、会津若松の医師、渡部鼎(かなえ)の手術を受けることができた。このとき、医学の尊さとありがたさを感じ、将来、医者になる決意をした。
1893明治26年、高等小学校を卒業し、医者の書生となる
1896明治29年、恩師の小林栄、渡部鼎医師の援助で上京。
1897明治30年5月、済生学舎に入る。 10月、医術開業試験に合格、すぐに高山歯科医学院講師となり、順天堂医院助手になる。
1898明治31年、北里伝染病研究所の助手となり細菌学の研究をはじめる。
このころ英世と改名。
1899明治32年、アメリカの細菌学者、フレキシナー博士が来日、研究所に立寄った際、英語の上手な野口が通訳をつとめた。これが縁となって留学の機会を得る。
--- この年、横浜港検疫所に採用されたばかりの野口は、入港した船員からペスト菌を見つける。当時、22歳。この出来事が彼の名を高め、日本の検疫水準を世界に示した。・・・・・ ウイルス感染と向き合う今、社会は検疫の重要性を認識している。きょう7月14日は検疫記念日である(2020.7.14毎日新聞「余録」)。
1900明治33年12月、アメリカ留学。
1901明治34年1月、フレキシナー博士の助手となりヘビ毒を研究。その後、ペンシルバニア大学の病理学助手。全米科学学会で研究成果を発表、アメリカで名を知られる。
1903明治36年9月、デンマークへ。
アメリカ・カーネギー財団から研究助成金を受け、コペンハーゲンの国立血清研究所に留学、研究主任マセン博士に師事、連名で論文を発表するなどした。野口はマセン博士をとても尊敬、亡くなるまで書簡を交換し親しくした。また、親子のちぎりを結んだ恩師の小林に留学の報告をする書簡も残されている。
1904明治37年10月、1年間の留学を終え、再びアメリカに戻り、ニューヨークのロックフェラー研究所員となる。
1910明治43年、アメリカ血清学会会長。
小児麻痺・狂犬病・トラコーマ病原体・結核などの研究、業績をあげる。
1911明治44年、梅毒菌スピロヘータの純粋培養に成功。
京都帝国大学より医学博士の称号が授与される。
?年、 アメリカ人のメリー・ダージェスと結婚。
1913大正2年、進行性麻痺、脊髄癆(ろう)が梅毒スピロヘータに基因することを確かめる。
この年、ヨーロッパ講演旅行中にデンマークに立寄った際、王室からダネブロー勲章を受章。マセン博士夫妻からもお祝いされた。
1915大正4年、16年ぶりに帰国。母や恩師に再会。腸チフスにかかったが一命をとりとめる。
スピロヘータ・バリダに関する研究に対し帝国学士院から恩賜賞を授与される。
1918大正7年、南アメリカ・エクアドル地方に旅行し同地方に流行する熱病の原因を調査研究。病原体の発見研究にうちこむ。
1923大正12年、帝国学士院会員に推される。
1927昭和2年、デンマーク王立科学協会会員になる。
ロックフェラー研究所の研究者ストークスが黄熱病で亡くなったことから、「致死性の高い疾患の病因を突き止めたい」と決心。アフリカ黄金海岸(西アフリカ/ガーナ)のアクラに赴き、*黄熱病の研究を重ねたが感染し*黄熱病にかかる。
*黄熱病:ビールスによる熱帯性の伝染病で中南米やアフリカでみられ、30~40パーセントが死亡するという。予防にはワクチン接種が有効。
1928昭和3年、53歳の働き盛りで死去。
遺体はアメリカ・ニューヨークに運ばれ、そこの墓地に葬られた。つぎは墓石に刻まれたことば。
「アフリカゴールドコースト(黄金海岸)に死ぬ。ロックフェラー研究所正員。その努力は科学にささげつくされた。人類のために生きる彼は人類のために死んだ」
参考: 国立公文書館平成29年秋の特別展<日本とデンマーク――文書でたどる交流の歴史> / 小中学校の教科書にでる『学習人物事典』1989学習研究社 / 『学習人名辞典』1994成美堂出版 / 『世界大百科事典』1972平凡社
| 固定リンク
コメント