千葉医学専門学校校長、荻生録造(千葉県、静岡県)
市川市に知人がいる「市川って千葉県?東京?」どっちだっけと迷うほど都心に近い千葉県。でも観光地の銚子や館山はちょっと遠い千葉県。いずれにしても筆者には近しい県である。とくに海水浴や潮干狩りでもおなじみの海がいい。
九十九里で眺める見渡す限りの大海原、太平洋はすばらしい。かと思えば、富津岬から眺める東京湾(江戸湾)がいい。遠く三浦半島に目をやれば、黒船が煙を吐いて進入してくるのが目に浮かぶ。
でも今回、千葉県に注目したのは、「チバニアン」のニュース。チバニアンは千葉時代という意味で、「ジュラ紀」などのように地質年代のことだそうである。
――― 千葉県市原市の養老川沿いで見つかった地層が77万年前に地球の磁場の逆転した証拠を示している。チバニアン(千葉時代)の千葉が地球史の時代の名称となるそう(毎日新聞・余録2017.11.14)
77万年前は私たち人類、ホモサピエンスが誕生した時代みたい。
2020.01.20 チバニアンが正式に認められたそうで、見学者が10倍に増えたとか。
---<地球史の境界に脚光>「最後の地磁気逆転」くっきり 地質時代「チバニアン」決定 千葉の地層のもとに(毎日新聞2020.1.18)
地球史は解からず千葉県民ではないが、なんだかいい。
せっかくなので千葉ゆかりの人物を探すと、学問知識が深くても驕らず、心の広い医学博士で校長の荻生録造に出会った。この校長先生に育てられた弟子や生徒たちは世の中に役立っている。
荻生 録造 (おぎゅう ろくぞう)
1859安政6年7月23日、幕臣・福永清右衛門の三男。江戸麻布新網町で生まれる。
旧沼津藩典医、荻生汀(弘道)の養子になり儒学者・荻生徂徠の一族の家督を継ぐ。
1868明治元年、明治維新後、一家で沼津に移住。
1869明治2年2月、沼津兵学校附属小学校、一期生として入学。
1871明治4年2月、外務省洋学校入学。ドイツ語を学ぶ。
1874明治7年、旧東京外国語学校入学、ドイツ語を専修。
1877明治10年4月、東京帝国大学医学科入学。眼科学をScriba、須田哲造に学ぶ。
1884明治17年6月、帝国大学医学部全科卒業。 10月、医学博士。
千葉町猪鼻台上にある千葉医学専門学校一等教諭、付属病院出仕。
1888明治21年、第一高等中学校医学部(旧千葉医学校)・教諭。同23年、教授。
千葉医専は資力がなく、経営がはなはだ困難であったが、荻生は同校の運命を一身に背負い、ひたす校運が栄えるのを願い名利をおうことはなかった。在職期間は34年間の長きに及ぶ。千葉医専が他の医専より頭角を現したのは荻生の努力によるものであった。
同校は大正12年、千葉医科大学へ昇格、現在の千葉大学医学部である。
1897明治30年、日本眼科学会創立の発起人として参画。
1899明治32年、町村立小学校教員恩給顧問医の嘱託となる。
1901明治34年4月、第一高等学校(第一高等中学校を改称)より分離して千葉医学専門学校となり、眼科学・法医学を担当。。
1902明治35年7月、千葉医学専門学校長心得。11月、校長兼教授となる。
県立千葉病院長兼司療医長。日本赤十字社千葉支部準備看護婦養成委員長
1903明治36年11月、文部省より眼科研究のためドイツ留学命ぜられる。
ベルリン大学、Silex教授に師事。
1904明治37年12月、帰国。
1907明治40年6月、論文を提出して東大より医学博士号を授与される。
論文:「松ケムシの眼に及ぼす危害について」「蚕蝕性角膜潰瘍及び本病と角膜老人環との関係」
1909明治42年3月、日本赤十字社千葉支部副長、支部救護員養成所長。
在職25年の祝賀会が行われ、記念に校庭に銅像を建設。建設費、1200円。雑費1000余円。記念絵葉書も作られた。なお、銅像は昭和18年供出を命ぜられる。
1911明治44年5月8日、千葉医学専門学校、開校25周年記念式挙行。
職員は荻生博士以下43名、学生医学科463名、薬学科91名。
同年10月、中国で辛亥革命はじまる。千葉医学専門学校の中国人留学生たちは、敵味方の区別泣く救うため、紅十字隊を組織しようとたちあがった。各地の医専在学の留学生にも呼びかけた。その医学生たちの志を諒とした荻生校長は、帰国する留学生たちに医術速成講習会を開いた。戦乱の地での応急の医療技術を教示したのである。
千葉医専の教授や県立千葉病院の医師、日本赤十字社千葉支部の看護婦らの協力を得て、11月1日~8日までの短期間に内科・外科・眼科・担架術・繃帯術・消毒術など、救急医療を中心に講義と実技指導を「人類相愛の至情」に基づいて無償でおこなった・・・・・・
留学生らは中国各地で活躍・・・・・・翌年4月ころから日本に帰り、その多くは復学して無事卒業した。
現在、千葉大学医学部の構内に、留学生たちが医専当局と日本人学友からうけた恩義に感謝して建立した記念碑「感謝の碑」が残されている。ほぼ百年前に花開いた日中友好の心あたたまる標(しるし)といえよう(『千葉県の歴史』コラム「激動の中国に帰る医学生を送る」より)。
趣味:書画骨董。
論文:「小疱性結膜炎の原因に就いて」『近世トラホーム講話』荻生録造1911明文館
1914大正3年12月11日、夏ごろより病を得て、校長在職中に死去。55歳。
正四位に叙される。千葉県知事が弔慰金2千円を遺族に贈呈。
沼津市の乗運寺に葬られ、*石黒忠悳の筆になる「正四位勲三等医学博士荻生録造墓」の墓碑が建てられる。
*石黒忠悳: “明治の軍医制度確立、石黒忠悳(福島/新潟)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/02/post-d8ac.html
参考: 『房総医家名鑑』木村清吉1912安井融平 / 『沼津兵学校と人材』大野虎雄1943 / 『千葉街案内』古川国三郎 / 『千葉県の歴史』石井進・宇野俊一2000山川出版社 / 〔第6回代戯館まつり・医学博士荻生録造展〕(後援:沼津市教育委員会・静岡新聞社・沼津信用金庫・上本通り商店街)
| 固定リンク
コメント