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2017年12月30日 (土)

日米親善に努めたジャーナリスト、浅野七之助 (岩手県)

 年末年始、空港は海外へ行く人で大賑わい。筆者も年末のオーストラリアでグリーンクリスマス、シドニーのヨットハーバーで南十字星を見上げた思い出がある。海外旅行は珍しくないが、明治・大正期は渡航するだけでも大変だった。まして移民となれば困難苦労があった。それでも各々の事情や志から新天地を目指した者は少なくない。そして移住先の国と日本が交戦したらどうする、どうなる。そのとき日系人や日米親善に尽くした日本人がいた。原敬の書生をしていた浅野七之助である。

        浅野 七之助

 1894明治27年、日清戦争。11月29日、岩手県盛岡新穀町で代々ロウソク商を営む浅野幸三郎とひさの4男に生まれる。
 1904明治37年、日露戦争。高等小学校入学。同41年、盛岡商業学校入学。
 1913大正2年、原敬の書生として盛岡古河端の別邸に住み込む。翌3年、東京芝公園内の原邸に勤務。かたわら神田正則予備校と*正則英学校に通学。書生部屋にあって、政治家や新聞記者、陳情団と原敬とがおりなす人間模様に影響をうけた。
    *正則英学校: “明治・大正期の英語学者、斎藤秀三郎(宮城県)”
      https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/05/post-cd69.html

 1916大正5年、東京毎夕新聞社(床次竹二郎主宰)に入社、記者となる。
 1917大正6年11月20日、東京毎夕新聞特派員として渡米。原敬に「自由な生活に溺れて自分を忘れてはならない。役に立つ人間になって帰って来い」と諭される。
   12月20日、カリフォルニア州エキシタの実兄・幸平の元に身を寄せ、学資を稼ぐためオリーブ栽培に従事。しかし、オリーブ苗が暴落し「キャンプ生活」をする。それは自分の寝具を抱えて仕事場を渡り歩く肉体労働で、学資を稼ぐためである。

 1920大正9年、サンフランシスコに移住。スクールボーイ(就学生)のかたわらワシントンスクール通学。農場の労働やホテルボーイの経験から、アメリカの底辺社会や日系人の実情を知る。なお当時のカリフォルニアは排日の気運が強かった。
 1921大正10年11月、原敬首相、東京駅で刺殺され、浅野は日本帰国を断念。日本語新聞「日米新聞社」(我孫子久太郎社長)に入社。
 1923大正12年、新聞記者として「船の名士係」を担当、客船がサンフランシスコ港に到着すると、記者2~3人と行ってインタビューし社会欄の記事にした。
 1924大正13年、アメリカ排日移民法制定。白人労働者の反感で日本移民入国禁に。
 1926大正15年、結婚。浅野31歳、妻・菊池なか24歳。

 1931昭和6年夏、日米新聞社で大争議。
 ――― おりからの大不況を押して新週刊誌の発刊など強気に出て経営が悪化、従業員側が未払い賃金の支給や一部幹部記者の退社など要求。従業員はストライキ・・・・・・ 浅野は我孫子側について相談相手となった・・・・・・争議そのものは、我孫子側、罷業団の双方に大きなダメージを与えて終わった(『アメリカの日本語新聞』)。
 1934昭和9年、日米新聞社編集局長に就任。
 1936昭和11年、日米新聞社長・我孫子久太郎死去。妻の余奈子が跡を継ぐ。

 1941昭和16年12月7日(日本時間8日)、日本軍真珠湾を攻撃。日米新聞社FBIによって封鎖。そのとき、日曜日で浅野七之助は家におり電話が鳴った。

 ――― 「浅野さん大変ですよ、いま日本がホノルルをバーンバンやっています。英字新聞社や方々から電話がかかりづめで、編集は大騒ぎです」・・・・・・ ブッシュ街とスタイナー街に行くと、兵隊が自動車の通行を禁じている。日本人町に行ってみると、いずれも顔色をかえてソワソワしている・・・・・・ 12月8日、日米新聞一面トップUP電

     日本突如・軍事行動に出で 日米両国俄然干戈(かんか)に見ゆ
     日本海軍布哇(ハワイ)を電撃的に襲ひ 真珠湾上空で大空中戦演ず

 1942昭和17年2月19日、ルーズベルト大統領が、日系人約11万人を砂漠に建てられた戦時転住所に収容を命令。3月23日、日系人強制立ち退き命令。
   5月上旬、競馬場の馬小屋を改装した1万人近く収容できるタンフォラン収容所に入るが、次に着の身着のまま、砂漠のユタ州トパーズ戦時転住所へ移転。戦時転住所はトパーズ、マンザナほか10ヶ所建設された。
   12月、トパーズにおいて、浅野は協力者と住民、仏教界の京極逸蔵師の愛蔵の日本語図書などの寄贈で日本語図書館を設立。自由に読書・談話を行える空間を設けたのである。

 1944昭和19年12月、「ロッキー新報」に「カリフォルニア州帰還論」を執筆。
    拘留解除の法令が発布されると、浅野は日系一世らの外部転出にかかわる保証金問題、カリフォルニア州民の日系人に対する感情問題や、帰還に伴う諸手続きなどに奉仕。それが済んでから日本語図書館を整理し、アメリカ西部のモンタナに家族と共に移る。 
 更に、「ロッキー新報」のサンフランシスコ通信部の仕事のためサンフランシスコへ移り、ストージ教会の地階に家族と移住。 「ロッキー新報」の仕事をしつつ、日本戦災難民救済運動カリフォルニア州外国人土地法廃棄運動民権擁護運動に取り組んでいく。

 1945昭和20年8月6日、広島に原爆投下。8月15日、日本の無条件降伏
     11月、日本戦災難民救済活動はじめる。
 1946昭和21年、「日米時事新聞社」創立。5月18日、創刊号発行。
     12月7日、日系人によるサンフランシスコ日本難民教会救済物資37万713ドル分を日本へ送付。母国の戦後の惨状を知った浅野は在米日系人らに呼びかけ食料品や衣類・薬品を集め、日本戦災難民救済運動を開始。LARA(LicensedAgencyforReliefinAsia)へと発展、ララ物資として日本に送られ昭和27年迄続けられる。

 1948昭和23年1月19日、*大山土地法事件がアメリカ連邦最高裁判所で判決、勝訴。
    *大山土地法事件: アメリカ市民である日系二世のフレッド・大山が州外国人土地法違反で、サンディーゴ郡検事局に検挙され数次にわたる裁判で敗訴に終わる。同じ理由で検挙された日系人土地所有者は、かなりの数にのぼっていた。日系人が戦時転住所に追いやられたことをよいことに、アメリカ市民である二世の土地まで「没収」する当局のやりかたに浅野は憤慨。カリフォルニア州外国人土地法を廃棄するまで法廷で争うべきだと考え全面的に支援し、日系人総ぐるみで闘いついに勝訴したのである。

 1950昭和25年5月、33年振りに日本訪問。日赤本社に保管中のララ物資の前で天皇・皇后陛下に拝謁。

 1952昭和27年6月、アメリカ、排日移民法の撤廃
    「帰化不能の外国人」とされた在米日本人は、市民権を必要とする職業につけず、またアメリカ市民に等しく与えられる各種の免許も取得できなかったのだが、マッカラン・ウォルター法の制定によって移民帰化上の差別が撤廃された。
 排日移民法成立から約30年ぶりに在米日本人はアメリカへの「帰化」を許され、土地所有も可能になった。浅野は一貫して在米日系人の基本的人権擁護に尽力したのである。

 1957昭和32年、海外日系人親善大会(東京・産経開館)に出席。
 1961昭和36年、カリフォルニア州上院より「日系人に対する差別反対、日本難民救済運動に尽力」したとして表彰される。この年、ヨーロッパを歴訪。
 1962昭和37年、『在米四〇年-私の記録』を刊行。39年、東京オリンピック取材
 1970昭和45年、岩手日報文化賞(社会部門)受賞。48年、勲三等瑞宝章を受章。
 1986昭和61年、天皇在位60周年記念式典のため来日。

 1987昭和62年5月16日、「日系人へ貢献、ララ物資送付、日米親善に尽力」など功績で表彰され、[サンフランシスコ市における浅野七之助デー]が制定された。

 1993平成5年、 死去、99歳。アメリカ国籍を取得せず日本人であり続けた。

 ――― 浅野さんは、大正から今日(1987年)までアメリカにあって、アメリカと日本を透徹した目で見ながら人間愛をもってペンをふるい、いったん事にあたっては、寛容の精神に加え、卓抜した決断力、行動力を発揮し今日まで生き抜いてきたたぐい稀なジャーナリストである(『日系人の夜明け』)

   参考: 『日系人の夜明け』長江好道1987岩手日報社 / 『アメリカの日本語新聞』田村紀雄1991新潮選書 / “盛岡市ホームページ”
http://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/moriokagaido/rekishi/1009526/1009527/1009548.html

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