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2018年1月27日 (土)

室蘭の開拓、石川邦光・泉麟太郎 (宮城県/北海道)

 2018(平成30)年1月22日、関東大雪。首都圏の交通は大混乱、車は立ち往生、転倒続出で怪我人多数。雪国の人からみれば何という大騒ぎかも。大雪から一日おいた夕方、有楽町駅で待ち合わせ銀座で食事をした。大通りには全く雪がなく、いつもの賑わい。でも帰宅すると道の両端に雪が寄せられ気をつけないと足をとられる。都心と違って風も冷たい。でもまあ、家に入れば暖房がある。
 これが昔だったら寒いし冷たいし大変。ずーっとさかのぼって明治期、開拓に従事した人はどうやって寒さを凌のいだのか。
 北海道近代史には全国各地から渡道して、開拓にあたった先人の苦労が記されている。『北海道の歴史散歩』をみていたら、東北諸藩の陣屋跡が目についた。それで気付いた。一藩あげて、または団体で北海道開拓にいったのは未知の地でなく情報、予備知識があったのだと。
 今回、『北海道の歴史散歩』を参考、引用させてもらいながら宮城県を見てみた。

      白老仙台藩陣屋跡(国史跡)

 1854安政元年、幕府は日米和親条約を結び、列強諸国とも和親条約を結んで開港したが、北辺の緊張は依然として続き、松前藩、東北諸藩に命じて蝦夷地を分割警備させた。
 仙台藩は、白老から襟裳岬をへて国後(クナシリ)・択捉(エトロフ)島までの東蝦夷地の警備担当となる。元陣屋を勇払(ユウフツ苫小牧市)に置くよう指示されたが、現地調査の結果、白老を適地とし許された。
 1856安政3年秋、陣屋が完成。
   白老に元陣屋、広尾・厚岸・根室・国後(クナシリ)泊・択捉 振別(フレベツ)に出張陣屋を置き、多くの藩士が警備にあたった。元陣屋は、堀と土塁に囲まれた内曲輪と外曲輪のなかに6基の門を構え、常時100人以上の藩兵が駐屯した。

       草刈運太郎の墓碑
 1859安政6年、白老が藩領地となり、代官が置かれ民政に尽力した。
    のち、仙台藩士が白老を撤退するが、草刈運太郎は白老代官として残留。新政府軍が陣屋を接収したさいに破壊など狼藉をおこなったことに抗議、兵士に切られ負傷。それで逃れ、隠れていたが傷が癒えず社台の砂浜で自決。
 20余年後、仙台南宗三大家の一人茂庭竹泉が当地を訪れ、その死を悼んで墓碑を建立した。

 1868明治元年、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主であったため、*箱館裁判所により追討の命がだされ撤退し、陣屋は放棄。陣屋跡地は、史跡公園として保存され、土塁・塀は修復、表門を復元。
    *箱館裁判所:幕府から蝦夷地経営を引継ぎ、新政府の下に定着させるために設置。

      東蝦夷地南部藩陣屋跡(国史跡)

 1855安政2年、南部藩は幕府に箱館(のち函館)、幌別(登別市)間の沿岸警備を命じられ、箱館に陣屋を、長万部に屯所をおいた。戊辰戦争がはじまると、盛岡に引きあげるため陣屋を焼却。現在、一部が再建され、史跡公園として整備されている。

      南部藩ヲシャマンベ陣屋跡(国史跡)

 1856安政3年、幕府は南部藩に北方警備のため箱館、恵山岬から幌別までの警備を命じた。南部藩は箱館に元陣屋、室蘭に出張陣屋、ほかに分屯所を設けた。

      仙台藩十勝陣屋跡

 1859安政6年、十勝が仙台藩の領地となり、丸山に領地一帯を警備する陣屋を構えた。
    現在は、跡地に小学校の校舎があり、林の中に土塁・虎口・馬出の一部が残る。また仙台藩十勝陣屋跡井戸枠は、広尾町郷土保存文化伝習館「海の館」で復元展示。

      伊達氏開拓記念館

 仙台藩は奥羽越列藩同盟の敗戦後、家中丸ごとの自費移住による蝦夷地開拓をすすめる。
 1869明治2年、有珠郡支配を許され、家宰の田村顕允の先発で支配地を受ける。
 1870明治3年、第一陣250人が移住し開墾をはじめる。以後、1881明治14年までに9回、15大領主邦成以下、総勢2681人と伊達家重臣・柴田家の123人が移住。
    なお、伊達市舟岡町は柴田家中が移住した土地で、柴田家開墾記念碑がある。

     石川邦光(源太) & 泉麟太郎

      輪西村開拓記念碑元輪西八幡神社境内
 1871明治4年、仙台角田藩の元領主・石川邦光は、室蘭支配を許され旧藩士51人と移住した。しかし、第2陣の移住者に辞退者が多く、支配を罷免された。
      添田家渡道発祥之地記念碑元輪西3丁目
   事業を引き継いだ泉忠広、添田竜吉らの指導で、石川町・元輪西町などの開拓がすすめられた。添田は実弟・泉麟太郎と協力して開拓に尽くし、また、関西方面に輪西氷を売り出し、鋳物工場も営んだ。
      
     石川邦光: 仙台藩角田領主(三万石)、宮城県伊具郡角田町初代町長。
      戊辰戦争後、政府が蝦夷地を開拓すると知り、邦光は家臣一同と協議する。
 ――― 蝦夷地はロシアと隣接し、帝国北門の鎖鑰たり。この地に移住して兵農あい兼ね開拓に従事せば一は、さきに名分を誤りたる罪を償い、一は以て各自糊口の途を得んか

    11月、邦光は重臣・添田竜吉らを率い室蘭郡に出張、開拓使より版図の引継ぎ、翌年、移住の方法をたて忠広らを室蘭に留め、角田に帰る。
 泉忠広・木幡省左右を開拓執事、添田竜吉を開拓助勤、泉麟太郎らを開拓監事に任じる。 石川家主従は移住の際、武器そのた諸品を売却して経費に充てたが、資力は乏しい。

 1869明治3年3月下旬、省左右・麟太郎ら51名は邦光に先だち移住。角田を出発して*寒風沢港に至り、官船・長鯨丸にのり箱館港に入り三日間滞在して必需品を購入。
     *寒風沢島の洋式軍艦「開成丸」と三浦乾也(江戸)・小野寺鳳谷(宮城県)
     https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/11/post-e5f3.html

    4月6日、室蘭到着。
          当時、室蘭は和人・アイヌ合わせて数十戸の部落であった。移住者はここで郡内の地を検し、室蘭に小屋がけをなし開墾に着手。輪西方面の開墾着手は数ヶ月遅れた。
   移住者は戸数44戸であるが、家族挙げての移住は僅か4戸のみ。(翌年、10戸になったが、他は独身者であった。『室蘭市史』に44戸の名がのっている)。
    5月、邦光は旧臣300名を率いて出発しようとしたが、できなかった。
 それは、国許には隠居の義光が残って家中を取りまとめる方針であったが、義光が病に倒れた。その上、家臣が10万両を献金すれば旧領へ復帰が許されるという甘言に乗せられ、移住費用を騙し取られた。自費移住が絶望的となる。このため角田県に帰農を願い出るものが相次ぎ、やむなく支配地の返上を申し出ることになった。
 政府は邦光を罷免、片倉邦憲(幌別郡)・伊達邦成(有珠郡)に室蘭郡を分割
         “伊達邦成(宮城県)の北海道開拓”"
         https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/02/post-a96a.html
    
 そのため、室蘭の移住者は落胆したが、泉忠広・添田竜吉・泉麟太郎らは初志をかえず激励した。
 ――― 我等の移住世子は、皇国北門の枢地を固め、錦旗に手向かいたる罪を償い、主君の汚名を雪がんとする為にあらずや、諸君今ここを去りて何処に行かんとするか
Photo
   写真: 明治5年新築の本輪西の添田竜吉家(『室蘭市史.上』)

   泉麟太郎は添田竜吉の弟で、真成社をつくって移住者を助ける。
 輪西の道側に草小屋を造り、副業として僅かな商品を販売。また、弥蔵という者が払い下げを受けた旧南部陣屋の長屋を購入、これを運びこんで自宅を建てた。
 資本が乏しく、陣羽織一着で鮭52尾と交換、塩鮭にして販売した事もある。
 移住者中の壮丁10名を伴って札幌に出稼ぎしたが、このとき帆立貝約10駄を買いて持参して販売、売り尽くした。
 また、請負師の帳場を担当し、伐木に従事し数百円を貯蓄して明治5年5月輪西に帰った。
 得た金は移民の生計を助け、また若干金を携え、故郷角田に赴き、旧主邦光の弟光親を迎え来て移住者の心を繋ぐこともした。

   参考:『北海道の歴史散歩』2006北海道高等学校日本史教育研究会 /『室蘭支庁管内誌』1911北海道庁室蘭支庁 /『室蘭市史.上』1941室蘭市 /『宮城縣史 29』1986宮城縣史刊行会

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