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2018年1月13日 (土)

西南の激戦地、宇土は九州肥後国ど真ん中(熊本)

Photo “くまモン<東京×熊本スタンプラリー>きなっせ熊本(~2018.5.6)” 
 東京ステージは達成できるものの熊本は遠い。でも漱石が降り立った上熊本駅、わが輩通り歩いてみたい。
 ところで今回、同じ熊本でも宇土の話。実は熊本城の宇土櫓、西南の激戦地として宇土が気になっていた。それで『宇土の今昔 百物語』を見たが、九州の一地方の事柄が全国共通の問題と重なる部分も多く、地域外の者にも興味深い。
 まずは「まえがき」から、

 ――― 豊穣の内海、有明海からの潮風を受けて育った宇土の民の気風は、生来おおらかで進取の気性に富んでおります。いっぽうで要衝の地ゆえに古来戦乱も少なからず、日月とともに幾多勝者の凱歌と敗者の血と涙を刻み込んできた土地柄でもあります。
 ・・・・・・ 中世、名和氏の城は別名「白鶴城」、近世、城山に小西行長公が築かれましたるは「舞鶴城」・・・・・・ いずれも名だたるつわものどもが夢のあとです。
 さらに明治の文明開化でできたマッチ工場は「舞鶴社」、郷土雑誌は『舞鶴雑誌』、旧藩主の肝いりで創られましたる学舎は「鶴城学園」、そして戦後の新制中学校は「鶴城中学校」

 

      熊本城宇土櫓

 宇土は豊臣秀吉が島津氏を征服した時、*小西行長に分賜した所。
   *小西行長: キリシタン大名。14万石の宇土城主。朝鮮出兵では清正とともに先陣をきった。慶長5年の関ヶ原の戦い、捕虜となり京都六条河原で斬られた。

 ――― 熊本城は西南戦争の戦火で烏有に帰し、宇土櫓をのこすのみ。
 宇土櫓は、関ヶ原役において宇土城主小西行長が西軍に属し、東軍に擒殺されるや、加藤清正は宇土城を攻め、小西領を加賜せられ肥後守となる。翌年、清正は茶臼山を開き築城するに及び、宇土城を移して三の天守としす。これを宇土櫓という(『加藤清正』1909熊本写真会編)。

           黒船と宇土藩

 1853嘉永6年、ペリー浦賀来航。
     熊本藩は幕府に、横浜に隣接する本牧岬に警護の兵を出すよう命じられ、江戸詰の藩士604人を早速出兵・・・・・・宇土藩主・細川立則も浦賀表に・・・・・・ペリー艦隊はいったん引きあげたが熊本藩は改めて1691人の藩兵を六つの台場の警備に当たらせ・・・・・・ 宇土藩は十石崎台場を受けもち40~58人送った・・・・・・長州征伐に宇土藩は出兵をまぬがれ、犠牲を払わずに維新を迎えた。

          どうして宇土県にならなかった?

 1871明治4年、廃藩置県。全国に約300あった藩は廃止され県となり、その後、統合が進められた。廃藩直後、たとえ短期間でも県が置かれた(たとえば人吉県)が、宇土藩は熊本藩に含まれ独立度が低かった。

          西南戦争、宇土に政府軍本営   

 1877明治10年2月14日、薩軍西郷軍)、50年振りの大雪のなか鹿児島を発し、総勢1万3千人が熊本をめざす。19日、宇土に薩軍が入った同じ日、熊本城天守閣が炎につつまれた。
 籠城の鎮台兵が城下へ放火、火は宇土に届かなかったが不安のなか別府晋介率いる3千人が到着。村田新八率いる2千人ほか薩軍が、続々と宇土を通りこし川尻に・・・・・・戦闘は籠城の鎮台兵と薩軍、熊本士族の反乱軍とで始まった。宇土の士族の多くは避難していたが、旧藩主の呼びかけで交替で市中を巡邏して住民の保護を行う。
 4月1日、政府軍は別動旅団を組織し日奈久に上陸、八代を占領、小川・松橋の薩軍を破り宇土へ進軍して本営をおいた。宇土の士族は政府軍に協力。

         明治の大合併

 西南戦争後、頻発する農民一揆と発展する自由民権運動の沈静化をもくろみ、政府は郡区町村を行政単位とし、議会を設け、制限付きだが住民参加型の体制にした。ところが、政治や行政に関心が高まり、宇土でも国会の必要性を語りルソーの「民約論」に心酔する青年が百人も集まって、民権思想を学ぶ夜学会を開くなど政治熱が高まった。
 1888明治21年、市制町村制を制定。政府は全国で町村合併を短期間に行わせた。熊本県は一部の有力者の意見を聞いて合併をきめたから、宇土では選挙のたびに対立するようになった。

         三角築港

 1880明治13年、西南戦争で荒廃した熊本県の発展には県産の農産物など物資の流通を図ることが必要として「港湾修築建言書」が熊本県会に出された。三角港は宇土半島の先端にあり山紫水明だが、交通不便な一漁村であった。
 港を造るには道路の新設が必要で熊本から三角港まで約36km、河川に橋をかけ、海岸線は山を削り石垣を築かなければならない。近隣から多くの人夫が集められ、5千人余が道路開削や土砂運搬などに働いた。
 最大の難工事は赤瀬-小田良間太田尾-西港間の開削であった。急斜面の岩山にダイナマイトを仕掛け、玄翁(大型の鉄槌)・石ノミ・ツルハシで掘削し道路を開いた。こうした危険をともなう作業はもっぱら熊本監獄の囚人たちの仕事で、300人の囚人が従事した。69人の犠牲者をだし宇城市三角町磯山に供養塔「解脱墓」が建てられた。
 1887明治20年8月、30万2千余円の工事費と3年の歳月をかけ三角西港が開港。

         城下町炎上

 1945昭和20年8月10日、アメリカ軍戦爆連合210機の大編隊が宇土町を1時間にわたり襲った。空襲はほとんど機銃掃射と焼夷弾であった。終戦の五日前のことである。

                     < 人物編 >

        東大に助産婦養成所を設置した浜田玄達博士

 1854安政元年11月26日、宇土郡大岳村で生まれる。細川幽斎の侍医を務めたこともある熊本藩士・浜田元斎の長男。
 1870明治3年、旧藩主、古城病院を設けオランダ人マンスフェルトを招き西洋医学を広め、傍ら青年を教育。玄達も選ばれて学び、翌4年、上京して大学東校に入学。
 1880明治13年、卒業。同年、熊本医学校教頭に任ぜられる。玄達は患者に親切で学生には、夜間にドイツ語を教えるなど後進の育成に努めた。
 1884明治17年、私費でドイツ留学。産科・婦人科学を専攻。また刀剣好きで仕込み杖を持参。ミュンヘン大学で無給助手に採用され、治術も研究した。
 1888明治21年、帰国。東大に助産婦養成所を設置、ついで東大医科大学教授。
 1896明治39年、東大医科大学長。
 1915大正4年2月16日、死去。享年61。

         宗方小太郎と清国海軍の情報

 1864元治元年7月5日、宇土藩士宗方儀右衛門の長男に生まれる。
 1877明治10年、13歳で西南戦争を経験。その後、同心学舎に入る。
    同心学舎は、熊本隊を組織して西郷軍に投じ転戦した佐々友房が、西南後、特赦放免され、出獄後にはじめたもので、のちの済々黌。
 1884明治17年、清仏戦争。小太郎は佐々に連れられ、佐野直喜と上海に渡る。
   この後、小太郎は単身、中国の北部・東北部の日本人未踏の地を調査して歩き、政治・経済・軍事・文化や鉱物資源について情報を収集。
 1887明治20年、中国で新聞発行を企てた時、佐々の紹介で知り合った西郷従道(西郷隆盛の実弟)に生涯親愛と尊敬を抱き、海軍へ情報提供を続けた。報告は六百数十編とも。
 1894明治27年6月26日、中国人に変装して清国北洋艦隊の根拠地、威海衛に潜入、調査して海軍に報告。この小太郎の報告が、日清戦争の勝利に大きな意味をもったといわれる。同年、小太郎は広島の大本営で明治天皇に拝謁。
 1923大正12年2月3日、上海で急死。享年59。
   佐々は小太郎を「剛胆英気」と絶賛。佐々との出会いが諜報活動に身を捧げる運命を決めたようだ。また、『城下の人』石光真清も熊本出身で諜報活動に生涯を捧げている。

          女教師、嘉悦孝子

 1867慶応3年1月26日、横井小楠の高弟、嘉悦氏房の長女に生まれる。
 1874明治7年、8歳で日新堂へ入り竹崎茶堂の薫陶を受ける。12歳で家計を助け退学。父が経営する緑川製糸場で、工女として働きつつ、父が主宰する広取塾で学んだ。
 1887明治20年、21歳。東京の成立学舎女子部本科、のち高等部に進む。
 1892明治25年、宇土町に仮開館した私立鶴城学館、初の情勢教員として採用される。
  1893明治26年、父が衆議院議員に当選、東京に移転。
 1903明治36年、36歳。東京商業学校の校舎を借り私立女子商業学校を創立。
 1907明治40年、新校舎を建設。私立日本女子商業学校と改称、校長となる。
 1948昭和23年、新制高等学校制度発足により、嘉悦学園高等学校として再出発。
 1949昭和24年2月5日、死去、83歳。のち、熊本県近代文化功労者として顕彰。

         女教師、宗方光

 1845弘化2年8月3日、宇土藩士、宗方儀之進の長女に生まれる。
 1868明治維新、お側女中に召抱えられる。やがて弟の家族とともに東京と熊本を往復。
 1885明治18年、保母になる決意をし東京の*桜井女学校の保育科に入学。1年間修学。
       "桜井女学校と桜井ちか(東京)"
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/11/post-836c.html
 1886明治19年、41歳。帰郷して宇土町内に私費を投じて、宇土幼稚園を開設。
   保育室や遊歩場も完備、男女の園児20人ほどが楽しく遊んだが、翌年、閉園。
 1887明治20年、熊本市に熊本幼稚園が設立され、光は保母として招請される。
 1890明治23年4月23日、46歳の若さで病死。
         宗方光は熊本出身の女子教育家・矢島梶子が保育科を新設したので上京。 なお、楫子はキリスト教矯風会会頭として廃娼運動に奔走し、生涯を婦人運動、婦人参政権獲得運動などに尽くした。そうした先輩・矢島にとっても光の夭逝は惜しいに違いない。

      参考: 『宇土の今昔 百物語』2009宇土市史編纂委員会 / 『宇土郡誌』1921宇土郡役所 / 『九州鉄道案内』西山金三郎1909金光堂 /  『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂                                       

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