« 西南の激戦地、宇土は九州肥後国ど真ん中(熊本) | トップページ | 室蘭の開拓、石川邦光・泉麟太郎 (宮城県/北海道) »

2018年1月20日 (土)

『津浪と村』地理学・民族学、山口弥一郎 (福島県)

 会津藩士の山川浩は、西南戦争では西郷軍が包囲していた熊本城に政府軍別働隊として一番乗りの活躍。しかしそれ以前10年前の戊辰戦争では新政府軍と戦って敗れ賊軍となった。その山川浩の逸話が、毎日新聞<雑記帳>に出ていた。

   ――― 会津藩士の山川浩が戊辰戦争の端緒となった鳥羽伏見の戦いで敗れ、落ち延びた紀州で命を救ってくれた旅館の主人に贈った感謝の手紙や会津塗のわんなど9点が、旅館を営んでいた子孫から会津若松市に寄贈された。
 山川は敗走中に小松原(和歌山県御坊市)で熱病を患い、旅館で手厚い看護を受けた・・・・・・手紙は戦いから14年後に送られたもので、恩義を忘れなかった山川、「これを機に御坊市と末永い友好親善ができれば」と期待している。

 

 会津人は今も誇り高く各々の道に励んでいるが、山口弥一郎という地理学者も会津藩士の子孫で学問研究を人のために役立て業績もある。『日本地理学人物事典』を開くと、著書や研究、実績、研究の仕方が紹介されていて感心した。しかし、他の人名辞典や郷土誌などで名が見られないのはなぜかな。

 写真:『日本地理学人物事典*近代編』よりと、復刻版『津浪と村』

 

 

 

         山口 弥一郎

 

Photo
 1902明治35年5月13日、福島県大沼郡新鶴村の旧家に生まれる。
  ?年 会津中学校(福島県立会津高等学校)入学。二里余の道を歩いて通う。弁論部に属し、地理学者・山崎直方の講演を聴くなどして大正11年卒業。
 1923大正12年、福島県師範学校(福島大学)本科第二部を卒業。
    河沼郡坂下尋常高等小学校訓導となる。
 1924大正13年、一年間現役兵として軍務に服し、訓導に復職する。

 1925大正14年、福島県立磐城高等女学校(磐城桜ヶ丘高等学校)数学担当教員。
 1928昭和3年、文部省中等学校教員検定試験(文検)地理科に合格。
    他地域への栄転を望まず、磐城女学校の地理教師として郷土の研究に専念。
    任地は常磐炭鉱の中にあり、炭鉱集落の研究をはじめる。

 

 1931昭和6年、このころから地質学者・田中館秀三(*田中館愛橘の養嗣子)の序言により、北海道と樺太の炭田を調査。
   “文化勲章と断層発見物理学者・ローマ字論者、田中館愛橘(岩手県)”
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/11/post-f325.html
 
 1932昭和7年、宇部・朝鮮・満州・山東半島・上海・長崎の炭田をめぐる。
 1934昭和9年、筑豊・三池・西表島・台湾の炭鉱集落を調査。
    このような各地の炭田の集落・人口・民俗などに関する調査結果を『地学雑誌』『地理学評論』『地球』『地理教育』『地理学』に発表。

 

 1933昭和8年、三陸地震・大津波・死者3008人(うち三陸地方、死者1,823名、行方不明1,140名、流出倒壊6,837戸)
    ちなみに、明治29年6月15日の三陸津波で死者21,900人。
    山口は炭鉱集落の研究中であったが、田中館のすすめで津波の被害調査と防災の研究に取り組むようになる。三陸のすべての海岸を徒歩で集落調査、被害状況と集落移転の実態把握につとめた。
 また、民情を知るために、民族学的な調査研究もおこなった。この年は冷害も甚だしく、翌年はまれにみる大凶作となった。そこで、過去の凶作時における食習慣を調査した。また、山村の生活にも関心をもった。

 ――― 1936昭和11年12月24日、夜行で常磐線廻り東北本線を下ったのであった。刻苦して訪ねた旅からが生々しい資料が得られる。余りに難渋な冬の旅であったがために、反って村人に労られたことがあったようにも思う。
 田名部の宿をたって、吹雪の道を七里、漸く岩屋の事務所へ、村役場よりの紹介状を手にして辿りついた夜などは、まず一人旅として薄暗い二階へ、閉じ込められるごとく上げられてしまった・・・・・・ 誰をつかんで、どのように話を切り出そうにも、あまりに村人と隔離されている・・・・・・ややあって村の古老らしいのが下に訪ねてきたらしい・・・・・・
 私も炉の一隅に無造作に腰を下ろして話をはさんだ・・・・・・はじめ不審にきいていた古老も話が田名部になり、旧会津藩士の斗南移住のこと、私も会津士族の家に生まれたことなど語ってゆくうちに、始めて杯をさしてよこした・・・・・・
 本州の果ての尻屋崎に近い村で、吹雪の夜、犬の肉をつつき、焼酎を交わしながら、犬の皮を着けた古老より村の古い話を聞く図である・・・・・・

 次々と古老の話を写し、たしかめてゆけば村人の共通観念、共通意識と言うごときものは、一片の文章が発見されずとも、我々の探し求める筋道はたつのである。古老への尊敬と、聞き出す刻念さ、精度の確認などの手数を省かなければ、我々の師は僻地に行くほど厚く、深く教えてくれるであろう (『津浪と村』尻屋の津浪の話)。

 1940昭和15年、北上市の岩手県立黒沢尻中学校(黒沢尻北高等学校)・岩手県岩谷堂高等女学校(岩谷堂高等学校)教諭を兼任。
 1942昭和17年、『炭鉱集落』を著す。これを契機に、民俗学者・柳田国男の個人的指導を受ける。また、東北帝国大学農学研究所の嘱託として代用食の研究成果を発表。
 戦時中の食糧難に対応する研究だが、敗戦後も食料問題が切迫『東北の食習』を刊行。

 1943昭和18年、『東北の村々』。東北人として村々の振興について考え住民に説いた。
 1944昭和19年、焼き畑の慣行についても調査研究し『東北の焼畑慣行』をまとめた。
    山口の研究活動は、東北地方の農山漁村での生活の特性を追求するためになされ、地理学・民族学や社会経済史学も援用された。こうして東北地方の地域性を追求したが、一方で、津波の防災、凶作への対策、食料の増産、代用食について研究するなど実学的な研究を志した。

 1945昭和20年、敗戦。 岩谷堂高等女学校・教頭となる。翌21年、新鶴村に帰農。
 1947昭和22年、福島県立愛堂高等女学校(葵高等学校)の教壇に立つ。
 1948昭和23年、教頭に昇格し、若松市(会津若松)に転居。
 1954昭和29年、『農村生活の探求』刊行。各地の青年団、婦人会などに講演や指導を依頼され、自邸内に「東北地方農村生活研究所」を開設。自ら収集した資料や図書を閲覧に供し、数人が泊まれる設備をした。
 1955昭和30年、『東北民族誌 会津編』刊行。ダム湖に沈む只見村田子倉(只見町)の生活記録などが詳細に記されている。
 1956昭和31年、福島県立会津農業高等学校(会津農林高等学校)に校長代理として転任。
 1959昭和34年、『奥州会津新鶴村史』民族誌と集落ごとの歴史地理に記述が多い。
 1957昭和32年、『開拓と地名 地名と家名の基礎的研究』地理学と民族学から研究した。
 1960昭和35年、停年を迎える。理学博士となる。
    5月24日、太平洋側にチリ地震、津波襲来、死者139人(うち三陸地方、死者119名、行方不明20名)
  山口の序言を入れ高地に移動していた集落は被害を免れ、岩手県知事の賞辞を受ける。

 1963昭和38年、亜細亜大学常勤講師(のち教授)、東京武蔵野市に転居。
    大学での地誌学を纏める『中華人民共和国地誌』『東南アジアの地誌』など。
 1972昭和47年、亜細亜大学を定年退職。創価大学文学部教授となる。
 1983昭和58年、『踏査記 シルクロードのストォーパ』日本文化の源流をシルクロードに求め、中国大陸の砂漠を踏査して著した。
 1989昭和64年、会津若松市に帰郷。
 1991平成2年、『九十歳の提言 郷土研究より世界文化構成論への筋道』を著す
 2000平成12年1月29日、数えの99歳の長寿を保ち、老衰のため没す。

 

    参考: 復刊『津浪と村』2011三弥井書店 / 『日本地理学人物事典*近代編2』岡田俊裕2013原書房 / 『車窓の日本・奥羽の巻』1943日本地歴研究会(山口弥一郎ほか11名執筆)恒春閣 

|

« 西南の激戦地、宇土は九州肥後国ど真ん中(熊本) | トップページ | 室蘭の開拓、石川邦光・泉麟太郎 (宮城県/北海道) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『津浪と村』地理学・民族学、山口弥一郎 (福島県):

« 西南の激戦地、宇土は九州肥後国ど真ん中(熊本) | トップページ | 室蘭の開拓、石川邦光・泉麟太郎 (宮城県/北海道) »