論語とソロバン、煉瓦、渋沢栄一 (埼玉県)
平昌オリンピックたけなわ。羽生選手・小平選手が金メダルを獲得、誰と会っても話がはずむ。さらに、スピードスケート女子団体追い抜き決勝の日本チームの縦3人一列の滑走に感動、金メダルを胸にした4人が誇らしい。スピードに乗った一糸乱れぬ美しい隊列。ここに至るまで、どんなに苛酷なトレーニングを積んだことか。
ところでスピード追い抜き団体は3人一組だけど選手は4人。どの競技にもリザーブは必要で、また出場してもメダルに届かない選手は多勢いる。でもオリンピック出場はすごい事。選手の皆さん、支えた方々に拍手。そして今夜はカーリング応援がんばります。
さて、オリンピック開催にはお金がかかり、良くも悪くも企業の支援が欠かせない。「近代日本経済の父」渋沢栄一ならどうするだろう。当ブログは教科書にでてくる人物はあまり登場しないが、渋沢栄一を知らない人がけっこういるので見てみた。
渋沢 栄一
1840天保11年2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれる。雅号、青渊。
1847弘化4年ごろ、従兄の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう・藍香)から論語をはじめ学問を学ぶ。また、尊王攘夷思想の影響を受けた。
1857安政4年ころ、富農の渋沢家は、血洗島の領主から500両の御用金を申しつかり、栄一が父の代理で代官所に出頭した。このときのやりとりから「侍が威張るのは幕政が悪いからだ、階級制度が間違っているから」と「倒幕」を意識するようになった。
1858安政5年、19歳。尾高惇忠の妹・千代と結婚。
渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕をし、米・麦・野菜の生産も手がける豪農。原料の買い入れと販売を担うため、ソロバンをはじく商業的な才覚が求められた。栄一も父親の供をして藍葉の仕入れにでかけたのが、実業家の出発点となった。
1863文久3年、24歳。高崎城乗っ取りを計画するが、尾高長七郎の説得で中止。いとこの喜作と世の情勢を探るため京に向かう。ほかに、横浜居留地の焼討計画をたてたが実行に至らず中止と掲載する人名辞典もある。
1864元治元年、懇意にしていた一橋家の用人平岡円四郎の勧めで一橋家に仕官。歩兵の募集、財政の改革、新しい事業の運営などで頭角をあらわす。
1867慶応3年、ナポレオン三世の開くフランスのパリ万博に行く将軍の弟・徳川昭武(14歳)の庶務・会計係として随行。ヨーロッパ滞在中に、チョンマゲを切り、洋装に変え、議会・銀行・会社・工場・病院・上下水道など見学、ヨーロッパ文明に驚き、人生を大きく変えることになる。
1868明治元年、幕府が倒れたため帰国。静岡藩に仕え、明治政府からの紙幣拝借金50万両余を基にして日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を駿府(静岡)に設立。
1869明治2年、30歳。明治政府に出仕。大蔵省(大隈重信)租税正となり、国家財政の確立に取り組む。
1870明治3年、政府は貿易による外貨獲得のため官営富岡製糸場を設置。農家出身で桑蚕に詳しい栄一は主任となる。
尾高惇忠が創立責任者となり2年後に完成、初代・場長となった。尾高は伝習工女第一号として娘の勇を呼び寄せ信頼を得、各地から工女が集まったという。
なお、「富岡製糸場と絹遺産群」は世界遺産となり見学者で賑わっている。
1873明治6年、大蔵省を辞任。官界の硬直した体制に限界を感じ実業界へ転進。第一国立銀行・王子製紙・大阪紡績・東京人造肥料・東京瓦斯など500余の設立に関与。
栄一は論語の精神(忠恕のこころ)を基本理念として単なる利益追求ではない「道徳経済合一説」を唱え、各種産業の育成と多くの近代企業の確立につとめ、実業界の最高指導者として活躍した。
ちなみに、渋沢栄一著『論語と算盤』(1927忠誠堂)国会図書館デジタルコレクションで読める。
1874明治7年、東京府からの要請で、身寄りのない子どもや老人を養う施設、「東京市養育院」の事務を司る。以来、亡くなるまで養育院の院長をつとめた。医療施設の整備や600以上の社会福祉事業にもかかわった。
1878明治11年、「商人の輿論をつくる」べく東京商法会議所を創立、初代会頭に就任。民間の経済団体として活動している東京商工会議所の原点である。2014年に東京飛鳥山の渋沢史料館で企画展があり、「商法会議所設立之儀願書」などの展示があった。
1887明治20年、深谷市に日本煉瓦製造会社の工場開業。
深谷は従来から瓦生産がさかんで良質な粘土が採れ、小山川-利根川-江戸川をへて隅田川を通り東京方面へレンガを運ぶ舟運が見込めた。製造されたレンガは、明治の代表的な建築である司法省(現法務省)・東京駅・日本銀行・赤坂離宮・東京裁判所・警視庁などに使用された。ドイツから輸入した当時の最新式ホフマン釜、1基残っている。
“旧国技館・東京駅設計の辰野葛西事務所、葛西万司(岩手県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/11/post-cb54.html
なお、栄一の出身地の深谷市では、JR深谷駅舎や総合体育館(深谷ビッグタートル)などレンガを使用した施設作りを行っている。
1895明治28年、深谷駅から工場まで、日本初のレンガを運ぶ専用線(蒸気機関車)が開通。昭和50年の廃止後は、遊歩道として市民に開放されている。なお、平成18年には約120年におよぶ会社の歴史に幕が下りる。
1901明治34年、62歳。日本女子大学校(日本女子大学)を創立、会計監査となる。
1902明治35年、アメリカおよびヨーロッパ諸国を夫人と訪問、国際親善につとめた。
1906明治39年、会社直営の保育園を設立。先進的な取り組みは国内4番目。
1909明治42年、渡米実業団の団長としてアメリカに渡る。
1914大正3年、中日実業株式会社の設立を機に中国を視察し、親善につとめる。
1916大正5年、77歳。実業界から引退。社会公共事業に尽力する。
1921大正10年、ワシントン軍縮会議の視察をかねて渡米、平和外交を促進する。
1923大正12年、関東大震災。大震災善後会副会長となる。
1927昭和2年、日米関係が悪化してきたことから、申し出でのあった日米の人形の交換を受け入れる。アメリカ側から12.739体の「青い眼の人形」が届き、各地の小学校へ送り喜ばれた。のち返礼として、58体の日本人形がアメリカへ贈られた。
1931昭和6年11月11日、92歳で死去。
「見直される渋沢栄一」(毎日新聞2018.1.3)記事より
――― 少子高齢化などで社会の大変革が求められる時代に、「渋沢スピリットに学び、格差解消こそ全体の豊かさに通じると知ってほしい」(香取俊介)
参考: 渋沢史料館(東京都北区・埼玉県深谷市)資料 / 旧煉瓦製造施設・資料 / 上毛新聞 「日本と世界と4遺産」2014.7.10 / 深谷市教育委員会・資料 / 深谷市生涯学習課・資料 /『コンサイス日本人名辞典』三省堂
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「過去記事、文字訂正」
明治の大金持ち、斉藤善右衛門(宮城県)
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/11/post-0b45.html
斉藤が佐藤になっている箇所があるとご指摘のコメントをいただきました。感謝してさっそく訂正しました。ありがとうございます。
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