わが国初めてのガス灯、島立甫 (岩手県)
新聞の給食写真をみて、孫が小学生のとき保護者も一緒に給食を食べたのを思いだした。教室中、親も子もみんなニコニコいい時間だった。
――― ◇ 盛岡市の小中学校で7日、国際連盟の事務次長も務めた同市出身の*新渡戸稲造(1862~1933)ゆかりの給食が出され、国際色豊かな料理に子どもたちの笑顔が広がった・・・・・・「昔もこんなおいしい料理があったんだ」(毎日新聞2018.2.8雑記帳)
“札幌遠友夜学校 (新渡戸稲造)と有島武郎(北海道)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/04/post-3c9a.html
早稲田大学オープンカレッジ<幕末~明治を生きたひとびと/宇都宮三郎>龍澤潤先生の講義。島立甫という、幕末にガス灯を灯した人がでてきて興味をもった。ただ、明治初期に没しているせいか資料が少なく惜しい。 生涯について盛岡市HP参照。
“<盛岡の先人たち> 島立甫・日本最初の*沃素発見者” http://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/moriokagaido/rekishi/1009526/1009578/1009626.html
島 立甫 (しま りゅうほ)
1807文化4年、盛岡藩奥医師・島玄忠の子として生まれた。本名、玄澄。
父玄忠は藩主・南部利敬の寵愛を受けたが、のち家禄を没収され野田(岩手県北東部)に流された。
1829文政12年5月、父玄忠、死去。 立甫は江戸に逐電、浪人して医者となり、江戸の本所天満宮(亀戸天神社)の側に居を構える。
1846弘化3年3月、わが国で初めて*沃素の抽出に成功。
*沃素(ようそ): 黒紫色の結晶。性質は塩素・臭素ににる。消毒・医薬用。
――― “島立甫ハジメテ之ヲ昆布焼灰中ニ得タリ”(蘭学者・*宇田川榕菴著* 『舎密開宗』外篇第一巻。
*宇田川榕菴: うだがわようあん。 江戸後期の蘭学者。
*『舎密(せいみ)開宗』 (W.ヘンリーの著をオランダ訳から重訳)、化学の、わが国における本格的紹介の始め。のち、幕府天門翻訳方となる。
1853嘉永6年、宇都宮三郎、嶋立甫の石炭油製造に関与。
――― 瓦斯(ガス)について余り世間の人の知らないことがある。それは本所亀戸の天神橋を渡らずに左へ少し往って、天神のうら門の真向こうに南部藩の島立甫という医者があって、その人が柱に竹管を取付けて瓦斯に点火して居った。当時、ゴム管や鉛管は得難いので細い篠竹の節をぬき、点火する火口の処だけ金属を用ひて、点火した、と思ふ。
子供の時、面白いものがあるというて私は度々観に往った。年代は判然しないが、安政の大地震の前かと思ふ。
石炭を乾留する機械を外国から取り寄せ、本式に瓦斯に点火したのであった。このような事をする位の人だから、余り流行なかったろうが、今になって考えると、造船に入用なテール(今いふコールター)が入用であり、それを採るために、石炭を乾留し、瓦斯は全くその副産物であったのだ。
小さい建物の内で、瓦斯製造と点火をやったのだが、普通の山師なら之を何かに利用したらうが、さうでもないらしく、ただ発生と点火をやって見たといふだけに止って居たやうに思はれる。このことはよく調べて、爺多(コールター)のことと共に、後世に残しておきたいことだ(『明治事物起原』「島立甫の瓦斯製造 医博・*三宅秀の話」)。
*三宅秀:みやけひいず 医学博士。佐藤尚中の女婿。
1863文久3~1864元治、15歳で渡仏。
徳川幕府は、開港延期の談判に池田筑後守らを欧州に派遣。このとき三宅の父の蘭方医・良斎が、随員の外国翻訳方組頭・田辺太一に従僕として従えるように頼み込んだ。父の良斎は蘭方医であったが、西洋医のほうが技術が新しいと考えたようである。
――― 嶋立甫が亀戸にて石炭油を製造し、之を巴麻油と名付け(元来、巴麻油は木材より製したるテールのことなれども同人は之に此名を用ひた)発売した・・・・・・その装置に多少改良を加え・・・・・・専ら自分が手伝って拵へた、此品(今のコールター)その頃の時勢に適せずして僅かに一両年で廃業した(『宇都宮氏経歴談』1902交詢社)
?年、目下記録にもっとも古いガス灯と思われるものは、嘉永末から安政の初めにかけて点灯した嶋立甫のものと言われている。彼は当時江戸の亀戸に住んでいた南部藩の医者だったが、造船に必要だったテール(現在のコールタール)を、取るために発生したガスを利用し、自宅の柱に竹管を取り付けて、点灯させた。時の老中・阿部伊勢守を始め、諸大名達も見に行ったそうである(『日本瓦斯灯事始考』前沢修一1998健友館)。
1855安政2年、大地震。江戸は被害甚大、圧死、焼死者は公式報告のみで約7千名。
?年、盛岡に帰り、実家を継ぎ盛岡藩の藩医となる。
――― “医師嶋立甫といえる南部家の名手あり。この家にて時々牛を屠り「何日牛肉配分」と認めたる看板を出す”(*橘不染著『もりおか明治舶来づくし』)。
帰盛してからもいち早く西洋の文物を取り入れていた様子が窺える。
1873明治6年、死去。65歳。
*橘 不染(正三)
1859安政6年7月8日、生まれ。明治~昭和前期の民俗研究家。
郷里岩手県の*求我社の自由民権運動に共鳴して巡査を退職、岩手新聞にはいる。のち郷土史を研究、『もりおか明治舶来づくし』 『盛岡近郊案内唱歌』1912著す。1937昭和12年7月5日、死去。79歳。
*求我社: “ 東北の自由民権 鈴木舎定(岩手県)”
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