図書館界のエジソン、秋岡梧郎 (熊本県)
2018年2月、雪と氷の祭典、ピョンチャン・オリンピックたけなわ。テレビ観戦では分からないが、競技会場は極寒と強風に悩まされて大変なようす。この冬は日本も寒く、積雪に悩む地域が少なくない。南の熊本地震があった地も雪が降り積もった。復興途中の地域被害が酷くないように願うばかり。
被災すると様々な困難に見舞われるが、一息つける場所があったらせめてもの慰めになろう。たとえば図書館もその一ヶ所となるようだ。
――― 避難所の公民館に併設された図書館では、職員の方が避難してきた子どもたちに絵本を読み聞かせ、子どもだけでなく大人たちにも癒やしを提供していました。
――― 熊本という地域には古くから文書史料を大切に保全してきた歴史を見てとることができます。先人たちの文書史料に対する情熱は1871明治4年の廃藩置県、さらには1752宝暦2年から始まった宝暦の改革にまでさかのぼります。宝暦の改革は熊本藩の藩主であった細川重賢が断行したもので・・・・・・( 【PASSION vol.38 平成28年熊本地震】より)
日本における近代的図書館のはじめは1872明治5年、湯島聖堂内にオープンした*書籍館である。書籍館は東京図書館、ついで上野公園に移って帝国図書館となった。
“かつて図書館(書籍館)に求覧券・閲覧券”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/04/no-7846.html
現在は自宅のパソコンで検索でき、自由に図書館の書架に手を伸ばせる。閲覧者の立場にたって改革した図書館人がいて改良された。それを実践した代表的な一人が秋岡梧郎である。
秋岡 梧郎
1895明治28年12月20日、熊本県益城郡豊福村大字竹崎で生まれる。
1902明治35年、福岡市大名尋常小学校に入学。熊本県八代郡鏡町尋常小学校を卒業。
190639年4月、熊本県益城郡西部高等小学校に入学
1908明治41年、13歳。熊本県立八代中学校入学。翌年、父・弥一郎死去。
1913大正2年、18歳。八代中学校卒業。母校・西部高等小学校・代用教員となる。
1919大正8年、24歳。岩崎ツモと結婚。
6月、益城郡教育会明治文庫司書となり図書館創設を担当する。
8月、熊本県立図書館の図書館事業講習を受講。
――― [明治文庫司書」 著作集中の“対談:秋岡梧郎氏にきく”より引用
秋のおわり普通のもみじがおしまいになったころ、熊本へ行ってごらんなさい。楮(こうぞ)や櫨(はぜ)の紅葉とというのは本当にきれいですよ。私は熊本で代用教員を正確には準訓導心得というのを2年間やりました・・・・・・
そのころ郡教育階に3千冊ばかりの本がありました。これを町に条件付きで寄付することになりました・・・・・・町が図書館を建てるなら・・・・・・
(明治)図書館を私にやれということで・・・・・・そのころ図書館というものは見本がないわけですから、熊本の県立図書館で教えてもらって勉強したんです。すると、その年の夏図書館事業夏季講習会の看板がでていたので、それをみて講義を聞いたわけです。
写真:熊本県下益城郡教育会「明治文庫」司書時代1919(秋岡梧郎著作集より)
1921大正10年、26歳。単身上京し新設の文部省図書館員教習所に入り、翌年修了。
生涯を図書館事業に捧げる決心をする。
1922大正11年、東京市役所(現、東京都)雇いとなり、日比谷図書館勤務。
同僚の波多野賢一と図り日比谷図書館の改革運動を起こしたが成功しなかった。
麻布図書館主任となり、閉架式閲覧制度を安全接架式に改める。
1923大正12年9月、関東大震災。翌13年、両国図書館主任。
震災により焼失した図書館の復旧を図り、安全接架式として開館。
1925大正14年、京橋図書館主任。震災を受けた深川・駿河台などの復旧計画に参画。
1929昭和4年9月、京橋図書館復旧新館完成。
書庫部と閲覧部を近接し、書架室を半円形、放射状書架配置により全開架式閲覧制度採用。
いまでは開架式は普通であるが、これまでの秋岡の工夫が当時の社会にあって閲覧者によかれと思って新しいことをするのは簡単ではなかったと思う。それにも屈せず、目録をカード式にするなど次々と工夫実行していった。その秋岡を間近にした人はいう。
――― 秋岡は理論よりも実践の人であった。つねに利用者の立場から図書館運営を考え、これを果敢に実践した。開架式の推進、無記名式貸出券の考案、実業室の設置、トイレに至るまで利用者の要求を第一とした・・・・・・当時、アイデアを生み出し絶えず前進することは容易ではなかった。秋岡の実行力は余人のゆるさぬところで、「秋岡さんは図書館界のエジソン」だ。
1931昭和6年、36歳。京橋図書館長。
1933昭和8年、京橋図書館閲覧者会を組織。その下に法律研究会を設け、高等文官試験の受験者勉学を助成して30余名の合格者をだした。
1937昭和12年5月、満州国へ出張、全国図書館大会に出席。
6月、京橋図書館にて帝都閲覧者大会を開き、紀元2600年記念事業として一大図書館の建設要望を決議、東京市議会に建議案を提出しようとしたが果たさなかった。
7月、日比谷図書館に転勤。目録係主任となる。秋岡は東京市の図書館員としてキャリアを積んだが、ドイツの画家ゲオルグ・グロスの画集を購入した廉(かど)で睨まれた。
「図書館長はアカだ」という噂が広まった。区役所の教育課長が偵察にきた。目録係に左遷されながら、長年の懸案である筆記体カナ文字を改良し、話題になった(『蔵書一代』)。『学生カナ筆記法』刊行。
1938昭和13年、43歳。日比谷図書館で閲覧者大会を開き、有志の署名をえて日比谷図書館の閉鎖反対、新に大図書館建設を要望する陳情書を小橋市長に手交。
1939昭和14年、王子図書館長に転出。
1940昭和15年、45歳。社団法人・日本図書館協会理事に選任され終戦まで継続。
1941昭和16年12月、日米開戦。第二次世界大戦。
1942昭和17年、駿河台図書館長。寄託されていた*内田嘉吉文庫の整理を、幸田成友(露伴の弟)の指導、弥吉光長の協力をえて完成。
*内田嘉吉: 明治・大正期の官僚。南洋協会創立、山本内閣のとき台湾総督。
1943昭和18年、日比谷図書館管理掛長。東京都政実施、東京都主事となる。
1944昭和19年、49歳。蔵書疎開作戦。東京誌料をはじめ貴重図書などの疎開事業を開始。3月、防衛局、疎開課、東京都の協力をえて、民間重要蒐書の買い上げ、疎開事業を開始。戦火から文化財を保護することに挺身した。
『蔵書一代』 第Ⅲ章より
<戦災下、40万冊の書物を救出>
その背景には書物の文化的価値を知る、秋岡梧郎ほか心あるライブラリアンの書物愛の熾烈な人の見識や、実務能力があった。見方によっては必死の衝動であり、蛮勇であったともいえる。第二次大戦中、東京市は28ヶ所の市立図書館の蔵書約73万冊のうち、東京大空襲をはじめ百回を超える空襲のため、約44万冊を失った。
東京市の場合は、市政会館のなかに防衛局が設けられ、帝国図書館の貴重書約6万6千冊が、県立長野図書館に送られた。
と、いえば数行ですむが、現代の感覚でとらえてはならない。輸送手段としては電車などはもってのほか、いわゆる木炭自動車でさえも調達困難で、大部分を大八車か人力に頼るほかなかったからだ・・・・・・現、千代田区立日比谷図書文化館の蔵書の一部、約40万冊もこのような手段を駆使して戦火を免れたのである・・・・・・
40万冊の疎開のことを思い出すたびに、秋岡梧郎の言葉が脳裏に浮かぶ
「戦禍から文化や貴重な文献を守るということは、図書館員だけがいくら一生懸命やっていても、また図書館がどんなに力を入れても結局はだめで、文化財を完全に戦禍から守るためには戦争をやめる以外にはないでしょうか」
1945昭和20年1月、空襲により都立深川図書館が焼夷弾に見舞われた。50歳。
4月15日、目黒区の自宅が空襲を受ける。家財一切を焼き軽傷を負ったが、焼け跡に小屋作りして住む。ところが5月23日、さらに25日、3度の空襲に遭った。
日比谷図書館焼失後、京橋図書館を本拠とし罹災・閉鎖図書館の復興がはかられた。
8月14日、ポツダム宣言受諾、敗戦。
1948昭和23年、文部省図書館職員養成所講師。25年、江東区立図書館長。
1952昭和27年、目黒区の自宅に、学校図書館研究所開設。
これ以後、鶴見女子短大・東洋大学・駒沢大学の図書館学講習講師などつとめる。
1982昭和57年、個人蔵書を中心とした「手作りの図書館」を自宅内に設け、その建設に協力してもらった身体障害児をはじめ、すべての市民に開放した。1階を子ども室、2階を成人室とした。
同年10月20日、死去。
参考: 『秋岡梧郎著作集』図書館理念と実践の軌跡1988日本図書館協会、肖像写真引用 / 『蔵書一代』紀田順一郎2017松籟社
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