秋田藩の戊辰戦争とその前後(秋田県)
寒さの夜。皆既月蝕を見上げていたら何がなしぐっときた。赤銅の色の月、きっと忘れない。昔の人は赤い月をどう受け止めたろう。現代は始まる時刻が分かり、日蝕で昼が暗くなっても、月蝕で月が赤銅色になっても驚かない。そのかわり自然への畏敬が薄れそう。でもまあ、情報があればむやみな心配を避けられる。
情報、戦なら有る無しは命にかかわる。戊辰戦争における東北諸藩はどうやって情報を手に入れ、勤王と佐幕に分かれたか。筆者は柴五郎に出会って以来、賊軍とされた側の話にひかれるが、官軍となった側にも話はいろいろ。たとえば、同じ東北に位置しながら奥羽越列藩同盟を抜け、勤皇方についた*秋田藩はいかに。
*秋田藩: 出羽秋田郡におかれた藩。外様大名。関ヶ原の戦いの結果、常陸から佐竹氏が入封、表高は20万石。内高40万石、実高80万石。初期には院内銀山の経営や林政などに力を注いだが、水田単作地帯で藩財政は不振(角川『日本史辞典』)
1807文化4年5月、幕命により蝦夷地警備。秋田藩649人を派兵。
この年、蝦夷地出兵費用として8200両の調達を領内に命じる。
1820文政3年、幕府より銅山手当として2万両を貸与される。
1830天保元年、シーボルト事件連座のオランダ人*大通詞・馬場為八郎、*亀田藩に預けられる。
*大通詞: 通訳としてだけでなく、広く西欧の学問文化を伝えた者も多い。
*亀田藩: 出羽由利郡、2万石。
1841天保12年、平田篤胤、江戸より強制送還され、秋田藩和学方で「皇朝古道学」を講じる。
*平田篤胤: 秋田藩士、大和田清兵衛の4男。国学者。激しい儒教批判と尊王思想のため幕府に忌まれ追放される。
1848嘉永元年、男鹿半島戸賀沖ならびに山本郡岩館沖に異国船現れる。
3月、土崎湊の浜に、周辺農民のべ43,000人を動員して砲台を築く。
1853嘉永6年、ペリー来航。
1855安政2年、東北諸藩に蝦夷地警備の幕命。9月、秋田藩勘定奉行らを松前に派遣。
1856安政3年、蝦夷地警衛のため出兵。
この年、*吉川忠行、久保田に唯神館を開き、国学・兵術の講義をはじめる。
*吉川忠行(きっかわただゆき): 江戸で蘭学・兵学・砲術など学び、国学にも通じ、「和魂洋才」を主義とし、藩内にも共鳴者がいた。砲術所には行き場のない若い次・三男が集まり、平田篤胤派の国学で思想を固め、洋式兵学で集団的軍事訓練を積んでいた。忠行の子、忠安にいたって勢力が強くなる。
砲術所設立の資金は山中新十郎(豪農/豪商)が提供した。
また、下級藩士は藩財政の窮乏により、俸禄は半分以下に減らされ、人形作りや染め物業などの内職で家計を支えていたので、藩に対する忠誠心は薄くなっていた。
1859安政6年7月、ロシア船、男鹿門前(男鹿半島南西端にある漁村)に来航して薪炭を要求。秋田藩これを支給。
9月、秋田藩、蝦夷地の増毛から紋別までと、利尻・礼文2島の警備を任される。
1863文久3年、秋田藩藩主・佐竹義尭、江戸市中取締を命じられるが、拒絶して帰国。
平田篤胤の生家・大和田盛胤邸に、尊王攘夷を主張する人びとが集まって雷風義塾が設立された。彼らは砲術所と結びつき「正義派」として藩政の動向に大きな影響を与えた。
1864元治元年3月、長州藩の使者、久保田に来訪。
8月、下関に拘留されていた秋田藩の藩船・福海丸、土崎に帰航。
1867慶応3年、幕府の諮問に兵庫開港を答申。
1868明治元年、苦境にある会津藩擁護のため東北諸藩、白石会議を開き盟約を交わす。秋田藩も家老(横手城代)戸村十太夫が出席して署名調印。
秋田藩は藩論が統一できず、鎮撫総督の命をうけて庄内藩追討の軍を由利方面に繰り出し、両用策をとる。重臣の多くが、東北の大勢に従おうと考えていたのに対し、砲術所・雷風義塾の人びとは新政府側とむすんで現状をあらためようと、家老らを説得、新政府軍支持に踏み切らせた。
7月、鎮撫総督・副総督ともに秋田で合流し、秋田藩は東北地方における新政府軍の司令所となってしまう。 同じ7月、盟約履行を求める仙台藩使者の宿舎を秋田藩の勤王派が襲って殺害。
ここにいたって秋田藩内は主要地帯の大半が戦場となる。
8月、秋田藩、奥羽諸藩に攻められ、本荘城・横手城・大館城があいついで陥落。
9月、西南諸藩の援軍が到着して退勢を挽回して、南部藩・庄内藩が降伏。
「全良寺(臨済宗妙心寺派)に官軍の墓地」
秋田市、全良寺には戊辰戦争で戦死した西国諸藩の武士の墓がある。遺体は、薩・長・土・肥などのほか秋田藩士などで265人に及ぶ。これは海山禅益(大内氏)と石工の辻源之助の努力による。
辻は、境内に作業所を設けて大工に遺体を入れる棺をつくらせ、裏山に埋葬したという。そして海山は墓地を造る費用を出すのために男鹿市の常在院の田地三千刈を売り払い、全良寺の田地も売り払ったという。
1869明治2年6月、版籍奉還。佐竹義尭、久保田藩知藩事となる。
1871明治4年、廃藩置県。秋田県・亀田県・本荘県・矢島県・岩崎県・江刺県を合わせて秋田県誕生。
「旧秋田藩士、初岡敬治・佐藤時之助、新政府の弾圧を受ける」
佐藤時之助: 戊辰戦争当時、藩財政を救うため貨幣鋳造を行い、その後、彼の後任者によって明治3年1月まで続けられた。政府は函館戦争以後の私鋳銭を厳禁としたが、秋田藩内に贋金を密告する者がいたので、弾正台(明治初年の警察機関)の調査をうけた。
会計担当をしていた佐藤は自ら貨幣私鋳の非を認め弾正台に出頭、獄につながれ、11月、判決を待たず獄中で死去。
初岡敬治: 華族の愛宕通旭・外山光輔が公家の失権を憤り、政府転覆を謀って捕らえられる。この陰謀計画に初岡敬治が参加したと薩長政府に疑われ、陰謀事件の関係はあきらかではないが、12月、斬首された。
秋田藩は、戊辰戦争で東北諸藩との盟約を破って新政府軍に与したが、戦後、新政府は秋田藩を東北諸藩と同じように厄介者として扱い、優遇しなかった。四囲に孤立し“官軍”として戦った秋田藩士の多くは、大きな展望が開けるものと期待していたが、現実はそうならなかったのである。 藩内対立は尾をひき、騒ぎや事件があいついでおこり、秋田藩は混迷を深めていった。
ただ、秋田侯佐竹は、東北ではただ一人、侯爵という高級華族に列せられた。
参考: 『秋田県の歴史』塩谷順耳ほか2001山川出版社 / 『秋田戊辰戦争』和泉竜一1987県南民報社 / 『秋田県の百年』田口勝一郎1983山川出版社 / 『秋田県の不思議事典』野添憲治編2002新人物往来社 / 『東北の風土と歴史』高橋富雄1976山川出版社
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