綴方教育の指導者・歌人、菊池知勇 (岩手県)
東日本大震災から7年2018.3.11復興はどこまで進んだのか。
あまりの災難に遭遇し今なお、心のケアが必要なお子さんがいるという。また、子どもを見守る大人自身も困難を抱えている。そうした人びとの拠り所、交流の中心になる場所の一つが、岩手県陸前高田市の海岸沿いに立つ、生き残った一本松。
――― 「奇蹟の一本松」が被災地と外の世界をつなぐ役割を担っている。震災10年までに「高田松原津浪復興祈念公園」が完成する予定(毎日新聞2018.3.13)。
震災の年に生まれた赤ちゃんはランドセルを背に通学しはじめ、小学生だった子は高校生や大学生になった。7年は長い。極度の困難に遭遇した生徒たち、その辛い体験を書き記して後世に伝えることがあるでしょう。その体験を作文に書くとしたら、何をどう書けば人の心に響くか。歌人で綴り方教育の菊池知勇ならどのような指導をするだろう。
菊池 知勇 (ちゆう/ともお)
1889明治22年4月7日、岩手県東磐井郡渋民村曽慶字在口(一関市)に生まれる。
1893明治26年、4歳で上曽慶小学校1年生として普通の人より2年早く入学。父・仁平とともに教室の中で勉強し、よく遊んだ。
1898明治31年4月、父が上奥玉小学校長として赴任。知勇は中奥玉高等小学校入学。自宅の柳峠から奥玉の立石峠を越えて数人の仲間と通学。栗拾いやキノコとり、ボール遊びを楽しんだ。
1899明治32年、短歌の「興玉会」が作られ、父とともに10歳の知勇も興味を抱く。
1900明治33年9月、父が折壁の浜横沢小学校長に転任し、下折壁高等小学校に転校し卒業する。
?年、 岩手師範学校に入学。文学・史学など読書に打ち込む。
1910明治43年、岩手師範学校卒業。
盛岡市城南小学校訓導(教師)になる。ここでの経験がのち業績につながる。
「生活自由の綴方」新しい作文指導をしつつ*若山牧水の短歌誌に作品を発表。また、牧水の新しい詩歌雑誌『創作』の創刊に参加。
*若山牧水:1885明治18~1928昭和3年
幾山河越えさり行かば 寂しさの終(は)てなむ国ぞ 今日も旅ゆく
白鳥はかなしからずや 空の青海のあをにも 染まずただよふ
多くの名歌が広く口ずさまれ旅の歌人、酒の歌人とも称される。妻・若山喜志子も歌人で牧水との合著歌集『白梅集』がある。妻の妹、潮みどりも歌人で『ぬはり』に参加する。
1915大正4年、歌集『落葉樹』朔風社
1917大正6年、これまで勤めていた盛岡市城南小学校訓導を辞して、上京。
東京市牛込小学校訓導となる。このころ結婚したようだ。
1919大正8年、慶應義塾大学幼稚舎に勤務。教え子に詩人の薩摩忠がいる。
当時の慶応幼稚舎は自由主義の大本山と目されていて、ここの主任は欧米の教育史を研究して帰朝したばかりの小林澄兄であった。知勇は、この小林の支持のもとで思うままの研究活動ができ、25年間勤めることになる
知勇はこの25年間に綴り方教育方面に膨大な仕事をなし遂げている。
(“菊池知勇著『児童文章学』にみる「表現」概念の位相” 茨城キリスト教大学・大内善一https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180315112849.pdf?id=ART0010344682 )。
1925大正14年、『児童万葉集』菊池武雄絵 オアシス社 児童詩歌叢書
1926年大正15年、日本最初の綴り方専門誌『綴方教育』を創刊。
子ども向き綴り方学習誌「綴方研究」など綴り方教育の研究と実践につくす。
1927昭和2年6月、口語短歌雑誌『ぬはり』を創刊、編集にあたる。
ぬはり社の住所、東京府巣鴨町1470。
菊池知勇・和田山蘭・高塩背山が若山牧水の許諾と協力を得て「創作」から独立。ほかに長谷川銀作・潮みどり(喜志子の妹)・ 越前翠村など多くの同人が参加した。これが文学活動の砦となり「ぬはり」の菊池として歌壇の一角に磐石の基礎を築く (天象短歌会 http://tensyoh.jp/publics/index/26/ )。
1929昭和4年、『児童文章学』全6巻。
1932昭和7年、『風景 口語歌集』文録社、『水流 歌集』ぬはり社。歌風は、静寂な人生味をたたえている。
1934昭和9年、「綴方研究」を改題、『佳い綴り方』創刊。綴り方界の革新を図る。その立場は、<表現のための生活指導>論の系列に属し、*「綴方生活」出現以前に『赤い鳥』の<教育的意図>の欠落を是正した点に歴史的意義がある。
“生活綴り方、村山俊太郎(福島県/山形県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/09/post-7ba4.html
1936昭和11年、『ぬはり』主宰者となる。
1941昭和16年12月8日、日本軍、ハワイ真珠湾を攻撃、日米開戦。この戦争により妹の婚家の大更村に疎開。 『出征兵士の歌へる戦場の雄叫び』文録社
1944昭和19年、戦争末期の料紙、雑誌統制により、8月から歌誌合併で『直毘』(ぬはり・青虹・真樹・短歌草原)として発行。
1945昭和20年、休刊。12月、復刊。伝統短歌の格調の中に個性を活かすという主張。
1950昭和25年、東京に戻り再び「ぬはり」の創作活動へ。『裾野 歌集』ぬはり社。
このころ奥玉小学校・中学校をはじめ折壁・津谷川・大慈寺小学校など29校の校歌を作る。
生い立ちや作品は、大東町立図書館に所蔵されており、渋民公民館曽慶分館内事務所の「菊地知勇先生顕影会」で建立した菊地知勇歌碑(知勇が生まれた曽慶字才口:写真)説明に記されている( 「奥玉小・中学校校歌を作詞した菊地知勇氏について http://www.asahi-net.or.jp/~fh4h-mrkm/okutama/old_new.htm )。
1958昭和33年、『菊池知勇全歌集』ぬはり社
1965昭和40年、『落葉松林』ぬはり社
1972昭和47年5月8日、死去。83歳。
歌碑(八幡平)
岩手山 すそ野に 住めば 天をおふ 吹雪の中に 日を 拝みつつ
歌碑(山田町)
わが郷の つはもののみたま ここにせまり 永久に堅磐に み国まもらむ
歌碑(奥州市 水沢公園)
うつし世にわが生きたればみちのくの曠野にともす小夜の灯火
参考: 『現代日本文学大事典』明治書院 / 『日本人名辞典』三省堂 / 『若山牧水』2011笠間書院
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