白川県権令・安岡良亮の機知 (熊本県)
今年は桜の開花が早い。地震で大きな被害をこうむり修復工事中の熊本城の桜も満開。テレビに映った熊本城行幸坂(みゆきざか)の桜、お城のどの辺りかなと思いつつお花見気分。今回はその熊本が白川県だった時の話。
1868明治1年5月、江戸開城。徳川慶喜、水戸に隠居のため江戸を去る。それに伴い、明治政府は江戸町奉行に代わり江戸鎮台を設置。鎮台は軍政機関で民政も司り、廃藩置県後と前後して六鎮台を設置、まもなく徴兵令を発表。
地方制度については新政府直轄地を府・県とし、府県には知県事・判事を置き、藩は従来通り藩主の統治とした。そうして現代よりかなり多くの県が登場したが、たびたび変更、整理されて今に至る。県名や地区が変更されるたび役所も県民も混乱、困ったこともあっただろう。しかし、短い期間だったせいか生まれては消えた県のことはあまり判らない。そうしたなかで白川県に興味をもった。きっかけは次の一行と安岡良亮県令である。
「白川県に改称された2日後明治5年6月18日明治天皇、白川県へ行幸」
写真
「白川県全図」
(『日本府県全図』林良泰1875山田文節)
...
<府藩県編制>(熊本県)
熊本藩― 熊本県(明治4.7.14)―熊本県(4.11.14)― 白川県(5.6.14)→
人吉藩―人吉県(4.7.14)―八代県(4.11.14)― 白川県(6.1.15)→
→・→(白川県)― 熊本県(9.2.22)→(長崎県より天草郡を編入)
人吉藩:肥後球磨郡人吉におかれた藩。藩主・相良氏、外様大名2万2千石。
1871明治4年7月14日、廃藩置県。熊本藩は熊本県になり、県令(知事)は安岡良亮(やすおかりょうすけ)。
同年8月、西海道鎮台を廃し熊本に鎮台本営、第一分営を広島、第二を鹿児島においた。その節、飽田郡二本木(現熊本市)白川県庁に鎮台をおき、県庁の事務は権大参事・有吉与太郎の邸に移した。
けやきのブログⅡ<第六師団の街だった熊本(熊本県)>
1873明治6年1月、八代県を廃し、白川県に合併。
5月、安岡良亮、白川県権令となる。
安岡は1825文政8年、土佐(現高知県)生まれの郷士。
明治元年、東征(徳川慶喜追討のための戦)に従い、新政府の役人となった。後に高崎県(現群馬県)参事、度会県(わたらいけん、現栃木県)参事を経て、白川県権令となった。
着任以来、安岡人事をすすめ安岡の出身地、前任地の縁故者で大属を固め、中属は勤王派を中心に、神職は敬神党を任用するなど県政掌握につとめた・・・・・・これまで県政の中核となってきた実学派を抑えるという政府の方針を実行。諸制度の改革などを進めて功績を残した(『熊本県大百科事典』本田秀人)。
属:官吏、役人。<安岡良亮の機知>
――― 安岡良亮、維新の初め熊本県令たり。時に熊本、実学・勤王・学校の三派ありて、互いに相反目す。学校派は佐幕党にして頭髪衣服に至るまで、ことさら之を異様にす。当時、実学派・勤王二派の総髪なるを以て、学校派は前額を広く剃り、剃下鬢(そりしたびん)と称し、以て県吏および実学勤王二派に抗す。人心恐々たり、旧藩主細川侯いたく之を憂ひ、しばしば懇諭するも制する能わず。
安岡一策を按じ、囚徒の頭を剃下鬢となし、傭役せしむ。ここに於いて一令を下さずして、学校派剃下鬢を廃す。人その機知に服す(『近世偉人百話.続』中川克一編1909至誠堂)。
同年6月、『生産初歩』L.L.センス(*ジェーンズ)著、白川県洋学校生徒(山崎為德・松村元兒・市原武正)訳。
*ジェーンズ: アメリカ軍人、藩の兵制顧問を兼ねて招かれた。
“存立期間は短くも人材輩出、熊本洋学校(熊本県)”
1874明治7年6月、白川県(肥後国飽託郡 高85万石余)、県令・安岡良亮。
8月1日、熊本県最初の新聞 「白川新聞」 創刊。
水島貫之、伊喜見文吾らは明治6年4月、安岡県令に士族授産金の貸与を願い出、布達類の印刷と月賦返還を条件として1000円を借用し、長崎の*本木昌造に弟子入り、10日間で印刷術を修得、ハント式手引き印刷機を購入して帰熊、活版社を同年5月熊本区塩谷町(現熊本市)に開業した。利益を無視して、文明開化のためという理想のもとに創刊したのである。最初、月2回、12ページ建て、一部3銭。
新聞の題号は熊本県と改称されると、「熊本新聞」と改題された。
*本木昌造: 日本活版術の創始者。蘭学を修め、造船術を研究。1851嘉永4年流し込み鉛活字を創案。明治3年長崎製鉄所を辞任、東京に活版所を設立。日本最初の日刊紙『東京横浜新聞』創刊に協力。
<白川県熊本の新刊書広告>(『文明開化2・広告編』宮武骸骨)。
「和蘭満斯氏口授『日講筆記』高橋正直口訳・田代文基筆記、白川県医学寮蔵版。
骨学篇・関節学・筋学・・・・・・四方医業ニ従事スルノ諸君来照アラン事ヲ希フ 活版社」
―――私の現在の研究は、林市藏という人物の生涯を追うことである。彼は・・・・・・官選知事であった。その過程で、林市藏の父親がどういう人であったかを確認する必要が ( 中略 )
そこで、細川藩政史研究会(熊本大学文学部歴史学科)、新熊本市史編纂委員会(熊本市役所)、熊本市立図書館、温知館(熊本県立図書館・熊本近代文学館)等に問い合わせてみた。その結果、熊本県立図書館から判明したと返事があった。
それは「熊本県公文類纂」の「有禄士族基本帳」に「改正禄高等調」として遺されていた明治7年2月10日付の文書であった。これにより旧名が「林惠右衞門」であること、禄高14石の士族であったことが判明した。この文書は、家督相続の際に提出したもので、熊本県に編入される以前の白川県権令安岡良亮に宛てられていた。
一般にこうした資料は、公文書館が取り扱うが、日本ではこうした資料保存の重要性に対 して認識が低い。したがって、自治体図書館が代わって役割を果しているのだろう。それにしても、改めて「図書館畏るべし」の感を強くした。
(『葛野の鐘』京都光華女子大学図書館報。「研究余話として」小笠原慶彰)
1875明治8年11月24日、県庁は飽田郡古城(現熊本市)に移る。
1876明治9年2月22日、白川県は熊本県と改称されて現在に至る。
10月24日、*神風連の乱(敬神党の乱ともいう)がおこる。
秋月の乱、萩の乱とともに新政府の開明政策に反対し熊本に起こった保守的士族の反乱。
太田黒伴雄らの旧熊本藩の士族170余名は、廃刀令を不満として挙兵、熊本鎮台を襲って鎮台司令官・種田政明らを殺害したが、まもなく鎮台兵のために鎮圧された。
安岡良亮は会合中に襲われ重傷を負い死去、ときに51歳であった。
なお、白川という川は熊本県県中部。阿蘇火山の根子岳に発してカルデラの南部を西流。外輪山の出口で黒川を合わせ、阿蘇火山の斜面を流れて熊本市街地を貫流、その西方で島原湾に注ぐ川。
下流域の潅漑開発には加藤清正の果たした役割が大きい。
参考: 『官員録 明治7~9年』 / 『熊本県大百科事典』1979熊本日日新聞社/ 『日本史辞典』角川書店 / 『日本地名事典』三省堂
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2018.4.4 毎日新聞<熊本城「新調」大天守>
――― 熊本城の大天守(地上6階、地下1階)を昨年11月から覆っていた仮設屋根が3日、撤去された。2016年4月の熊本地震で被災し、修復を続けてきた新しい屋根が姿を見せた・・・・・・。
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