養蚕・養鶏事業家・橋本善太、洋画家・橋本八百二 (岩手県)
当たり前すぎる事柄や単語を辞書でひいてみると、意外におもしろい。お総菜、パンやお菓子作りにも欠かせない食品「卵」、国語辞典(旺文社)には、
①鳥・魚・虫などの雌の生殖細胞 ②鶏の卵 ③まだ一人前にならない修行中の人。
「例」 ――に目鼻、――色、――酒、――とじ、――焼き。「医者の――」とあり、それぞれ説明がついている。
「○○の卵」といえば半人前の若者と思うが、幾つになっても一人前にならない人もいる。もちろん、内面が高校生のまま止まってる自分もだ。
そこへいくと昔の人は早くからしっかりしていたようだ。年間365個も生む鶏を産出した橋本善太、そして兄弟たちも若いうちから活躍、しっかりしていた。
橋本善太 (はしもと ぜんた)
1892明治25年5月15日、蚕種製造の橋本善太(亀太郎)、キンの長男として*日詰町に生まれる。
*日詰町:岩手県中央部紫波郡南部、北上川の中流域、水田単作農業の町。
生家は、屋号を吉田屋と称して代々コウジの製造を業としていたが、父親の代、明治二十年代にいたって蚕種製造業に転じた。
?年、日詰尋常高等小学校(現:紫波町立日詰小学校)に入学。
?年、初め盛岡中学校に入学したが、父が重病となったため2年で退学。幸い父が回復し改めて盛岡農学校農科(岩手県立盛岡農業高等学校)に入学。卒業後は家業に従う。
1903明治36年、弟の八百二生まれる。
1904明治37年ごろ、近所のわんぱくたちの間で闘鶏がはやり、善太もシャモを買って参加するも敗れる。善太は喧嘩に強いシャモをつくることを考え、強いシャモの兄弟同士を三代にわたりかけあわせたがうまくゆかなかった。
そこで、善太はニワトリの体内構造の研究に没頭。理想のニワトリづくりに励み、ニワトリが病気になると鶏舎につきっきりで看病し、傷が化膿すれば、その傷口を口で吸い出してやった。こうした愛情と努力が、やがて実を結ぶ。
1912明治45年、福田善三郎の二女と結婚。七男四女をもうける。
?年、日詰町会議員(4期)・日詰町助役(4年)・岩手県会議員(2期)など政界人としても活躍する。
――― 大正年代、蚕種業界に入ったころは、わが国における養蚕の最盛期でありました。そのため、蚕種の需要も多く、業界は活況を呈しましたが、そ善太は一つの矛盾を感じるようになった。
当時の蚕種改良は、純粋繁殖の理論を至上として推進されてきていました。その結果、生糸歩合は著しく向上して生糸業者には有利となりましたが、この反面、カイコは次第に弱体化して養蚕家は不利に追いやられる傾向にあったのです。
この矛盾に反発を感じた彼は、雑種強勢の理論を導入してこれに対抗することを考えました。そして、いろいろと苦心を重ねた結果、ついに、強健でしかも生糸歩合の高い一代雑種を作出することに成功したのです。大正末期のことでした。この一代雑種は、橋本家に大安がおとずれるように、という願いから「大安橋」と命名されましたが、その優秀さはたちまち全国同業者の注目するところとなって、各地から注文が殺到するようになりました。
後年になると、わが国の蚕種は法によって一代雑種に統制されるようになるのですが、彼のこの業績は、その先駆として高く評価されるべきものでしょう。
しかし、なんといっても、この人の真価は、蚕種業界と種鶏業界の中において評価されるべきものでありましょう。分けても、カイコとニワトリの品種改良に残された業績は、きわめて大きいものがありました(『産業を振興する人々-橋本善太』佐藤 正雄)
1929昭和4~5年、卵300個生む2羽を産出。
1933昭和8~9年、300卵、4羽を産出。
1939昭和14年、世界最初に1年無休で365日、毎日卵を産む超多産鶏を産出。
1945昭和20年、太平洋戦争、敗戦。
1951昭和26年10月、東京で種鶏研究会で産卵検定会が行われる。
善太の横斑プリマスロック2羽と白色レグホン2羽が365個産卵を記録。年中無休記録をうちたてた26羽のうち、3分の2は善太の系統をくむニワトリであった。
しかも、肉用種とみられていたロックの365個産卵は、世界初の快挙。それは善太が苦心して改良した50年間にわたる成果であった。
1952昭和27年、岩手日報文化賞を受賞。
1956昭和31年7月23日、死去。63歳。
善太の名を冠した卵肉兼用種「ゼンタックス」がいまに残る。名付け親は国分謙吉で、「善太が苦労した」意味をこめて命名した。
橋本 八百二 (はしもと やおじ)
1903明治36年4月21日、橋本家の4男として生まれる。
1913大正2年、*萬鉄五郎と交遊のあった小学校教師・大川英八に影響を受ける。
“明治・大正期の洋画家、*萬鉄五郎(岩手県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/09/post-ec3c.html
1921大正10年、盛岡農学校卒業。
農業の傍ら大川教師に油絵を学び、その勧め上京し川端画学校に入学した。
1924大正13年、東京美術学校西洋画科に入学。在学中に白日会、槐樹社等に出品。
1925大正14年、白日会第2回展に「静物」を出品、白日賞受賞。
1929昭和4年、東京美術学校西洋画科本科を卒業。
女流画家の原子はなと結婚。
自宅に橋本八百二研究室を設立、夫婦で後進の指導にあたる。
第10回帝展に「鉱夫作業」が初入選。以後帝展に毎年出品。
八百二がテーマとしてこだわり続けたのは、労働者などの複数の人間を描く“群像”だった。
1930昭和5年、300号「交替時間」で帝展特選。
1931昭和6年、第12回帝展「昼休」(特選)
1932昭和7年、斉藤与里、高間惣七、堀田清治らとともに東光会を創立。
第13回帝展「金券配布」帝国美術院推せんを受け無鑑査となる。
1935昭和10年、第4回東光会展「雲海」ほか3点を出品。
1936昭和11年、文展招待展「沼畔」世田谷の自宅に、橋本八百二絵画研究所を開設。
1937昭和12年、東京朝日新聞社ホールで個展を開催。大作中心に約100点。
1939昭和14年、神奈川県大和村に転居。
第3回新文展「鉱煙」50号。
1940昭和15年4月、陸軍より十二画家支那戦線へ派遣。
1942昭和17年、陸軍省の委嘱により藤田嗣治らとともに南支、仏印、海南島方面に従軍。
、戦争記録画を制作。
1943昭和18年、フィリピン、ニューギニア方面へ従軍。
1944昭和19年、「ニューギニア作戦」完成。
神奈川県から岩手県黒沢尻町に疎開。
戦時特別展「鉄鉱と戦う盛岡中学報国隊」無鑑査出品。
1945昭和20年、敗戦。
1946昭和21年、紫波郡日詰町に転居。第2回日展「梅」。
1947昭和22年、兄善太の後継者として推され、県議選に立候補し当選。
岩手美術連盟の美術研究所開設に尽力。
1948昭和23年、県立美術工芸学校の創設に尽力。
1957昭和32年、岩手県議会議長となり長くつとめる。
八百二自身の考え方 「政治は集約すると調和です。絵画も色と形の調和だし、人間社会だって調和の世界」。
1959昭和34年、画家復帰。画業のかたわら盛岡市の岩山に盛岡橋本美術館を完成。
自身と友人らの作品、バルビソン派作品、民藝、陶磁、鉄器などを展示。
またヨーロッパへ赴き、パリを中心に各地で制作。
1962昭和37年、岩手県紫波町に橋本美術館を着工。
1964昭和39年、美術館完成、自らの代表作を一般公開。
この年、橋本家の?男・橋本昌幸、黄花コスモス「サンセット」で花の花のノーベル賞といわれる
A・A・S選定会金賞を受賞。日本初、第二次大戦後世界3番目の快挙。園芸界の話題となった。
1970昭和45年、岩手日報文化賞受賞。
1975昭和50年、盛岡橋本美術館を開館、館長となる。
1976昭和51年、河北文化賞受賞、河北新報社。
1979昭和54年8月13日、東北の風景を描き続けるも脳梗塞のため岩手医大付属病院で死去。享年76。
参考: http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9645.html 「東京文化財研究所」 /『日本美術年鑑』昭和55年版 / 『新版 岩手百科事典』1988岩手放送 / 岩手県志波町http://www.town.shiwa.iwate.jp/kanko/rekishi/1/1931.html「ふるさと物語」/『産業を振興する人々-橋本善太-』近代人物脈 /『岩手の先人100人』1992岩手日報社
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『明治の一郎 山東直砥』 訂正。 p273後から8行目
一八七九(明治十二) → 一八七八(明治十一)
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