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2018年4月28日 (土)

郷土玩具のバイブル『うなゐの友』おもちゃ博士、清水晴風(東京神田)

    うなゐ髪をうなじの辺りで切りそろえ垂らしておく小児の髪形。そこから小さい子。うなゐの友、おもちゃ。
 
 電車などで赤ちゃんを見ると、つい笑いかけてしまう。それで若いママと会話が弾むこともあるが、赤ちゃんの笑顔が見られないこともある。かと思えば、ママもベビーカーに乗った2才児もそれぞれスマホを操っていたりする。スマホがおもちゃ?何んだかなあ。
 そこへいくと、昔の玩具は愛らしくのどかでいい。地域それぞれ特徴があり大人でも楽しいものもある。しかし、わざわざオモチャの本を出版しようとする人はあまりいないだろう。それが、明治期に清水晴風という人が蒐集した玩具を写生、本にもしている。晴風の作品は、国会図書館デジタルコレクションhttp://kindai.ndl.go.jp/ で検索するとかなり見られる。

 さて、清水晴風は江戸は神田の生まれ。その江戸っ子が何がきっかけで郷土玩具を好きになったか。蒐集までしたのか。晴風の資料があまり見当たらないが、幸い早大図書館に、『郷土玩具の美を発見した男の生涯 おもちゃ博士・清水晴風』があった。この伝記本には、親切な註があり、それも興味深い。本編とともに大いに参考にさせてもらった。

           清水 晴風  (しみず せいふう)Photo

 1851嘉永4年1月10日、元禄年間から200年に以上続く神田旅籠町草分けの旧家に生まれる。通称は「車屋」、主人は代々清水仁兵衛と称し、大名諸侯の人夫請け負いを家業としていた。
 1860万延元年2月、 神田明神下に住む芳林堂で書道を習う。幼少の頃から秀才の誉れ高く、寺子屋時代は80余名中、一、二を争っていた。

 1862文久2年3月、能装束司・関岡長右エ門方に年季奉公に住み込む(~15歳)。
 1870明治3年2月、父は放蕩者であったから早く11代清水仁兵衛を襲名。若い身で70~80人の荒くれ男を働かせるのは容易ではなかった。そこで力業を練り、20歳のころには力持ち番付の列するほどになった。また、広重の絵を学びその神髄を会得した。

 1873明治6年2月、俳諧をやり雅号「芳華堂晴風」を名乗る。
 1878明治11年、タツと結婚。

 1879明治12年、第1回の*遊食会「地獄会」に参加。

     *遊食会:一品ずつ食物を持ち寄って批評しながら賞味する風雅な集まり。会員には仮名垣魯文・幸道得知・談洲楼燕枝など名人大家がそろっていた。

 1880明治13年3月6日、向島言問で開かれた*遊食会「竹馬会」に参加。
    この日は、天神の祭礼に日にちなみ、子どもの時分にかえったように楽しくすごそうという企画だったので、余興として玩具を一品ずつ持ち寄った。
 このとき、晴風は玩具の真価に目覚め、その産地の風習人情、宗教または歴史に至るまでが玩具に現れていることを発見。これより、玩具蒐集(おもちゃ集め)を開始。

 1882明治15年、富士登山。
 1883明治16年10月、立正安国会に入会。
 1891明治24年、運輸請負業組合の頭取となる。
     4月、 名古屋・伊勢・京都・大阪・奈良・山陽へ玩具蒐集旅行。
      収集品は自ら画帳に写生して記録。収集品を欲しいという人があると譲ってお金を得、すぐにかねて欲しいと思っていた物を求めるのにあてた。
    10月、玩具の研究を網羅した『うなゐの友』初編刊行。

 1895明治28年、運送業の株を従業員の堀部徳兵衛へ譲る。
    11月、上野より奥州白河・仙台・塩釜・青森・室蘭・小樽・札幌で玩具蒐集。
     号を「晴風」と改め、悠々とくらして「玩具」「故実有職」「*絵びら」に耽った。

      *絵びら: 店の開店などに際し、贈り物の目録として作られたびら。現在のポスターのように掲示し、宣伝をかねて用いた。

 1896明治29年4月、東京美術学校<元禄年間より文化に至る時代美術品展覧会>へ所蔵の古美術品を出品。
     集古会が組織され晴風も参加。
     晴風は北海道函館で採集した石匙1個と小児玩具(雛形)数十種を出品。
 1899明治32年8月、福島・仙台・塩釜・松島・山形・秋田・水戸へ玩具蒐集旅行。
 1901明治34年7月、松平伯爵家要請により、華族会館へ玩具・雛に関する玩具を出品。華族の子女に雛に関する講話を行った。
 1902明治35年10月、四谷小学校女子部同窓会で婦女子に関する玩具について講話。
     『うなゐの友』2編(~1913大正2年6編刊行)。

 1903明治36年4月、読売新聞に<手遊(おもちゃ)博士の吃驚>掲載。
 1906明治39年5月、帝室博物館展覧会へ所蔵品を出品。
     11月、京都子ども博覧会へ所蔵の玩具129点を出品。

 1909明治42年3月、静岡・名古屋・伊勢・京都・大阪・奈良・須磨・明石・岐阜・飛騨高山・福井・金沢・へ玩具蒐集旅行。これまで熱心に集めた全国各地の玩具は総数、3500余点、種類にして600余種におよんだ。人類学者の坪井博士も晴風を推奨して止まなかった。

     5月、「大供会」発足――― どのような人も、楽しい思い出が多いのは幼い頃であろう。貴賎にかかわらず、誰一人として無邪気な子ども時代を経験しないものはいない・・・・・・幼児に関することを語りあい、研究しようではないかという主旨。
     9月、日英連合博覧会へ出品のため、文部省教育博物館依頼の「元禄式の弓破魔」を製作。
    この年、千社札に熱中、研究につとめたアメリカの人類学者、フレデリック・スタール(シカゴ大学教授)が二度目の来日、晴風がその道の指南役を買って出た。

 1911明治44年、神田区淡路学校で「郷校の歴史地理」講演を行う。
     3月、ドイツ領事館職員 ドクトル・ミュルラーに、日本の凧の歴史を説明。
     4月16日、還暦の祝宴。林若樹・坪井正五郎らが発起人となった。当日は講武所芸妓連の踊りや一龍斎貞水の講談、晴風作品の抽選会などの余興があった。
    11月、大供会主催の人形展「人形逸品会」が神田で行われた。

 1912大正元年、療養のため東北へ出かける。飯坂温泉・塩原温泉。
 1913大正2年2月、病を押して、*江戸っ子会に出て卒倒。
        *江戸っ子会: 明治39年発足。東京出身者のみで組織し、江戸情緒を味わう主旨の会。 
       7月16日、自宅で死去。
 その一生は江戸趣味の権化ともいうべきもので、信仰も気質も知識も江戸趣味を土台としたものであった(『神田の伝説』)。
 神田草分けの名物男のこと、葬儀の会葬者は3000名に達し、稀に見る盛儀であった(朝日新聞大正2.7.18記事より)。辞世の句、

   今の世の玩具博士の晴風も 死ねば子供に帰る故郷

      参考:『コンサイス日本人名辞典』(1993三省堂)に清水清風とあるが、間違いかと。
   以下は http://kindai.ndl.go.jp/ でみられるもの。
 『うなゐのとも』1~10(西沢笛畝編・山田芸艸堂)  『神田の伝説』(1913神田公論社) 『人形百種』 『雛の図』 『広重人物画稿』 『世渡風俗図会』1~8

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           『明治の一郎 山東直砥』 (中井けやき著 百年書房) 
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        『明治の一郎 山東直砥』 訂正。 p273後から8行目 
         一八七九(明治十二)      一八七八(明治十一) 

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