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2018年5月12日 (土)

会津ゆかりの芝公園、増上寺 (福島県)

 5月の連休が終わった平日の朝。JR仙台駅の上にあるホテル、カーテンを開けるとどうやら雨がポツポツ。この程度なら戸外も大丈夫、一日乗車券を買って観光へ。
 バスは出発時すでに満員。リュック姿の中高年男女、外国人もちらほら、そして中学生の一団が賑やかで楽しそう。そこへバスの運転手さんが中学生に慣れた口調で「会津から来たの?」 何で判るの?と中学生。運転手さんは「毎年いまごろ来るから」といったあと、「降りる時はおつりがないから、3人5人纏めて払って」などやさしく諸注意。それから冗談を交えながら観光案内をはじめると、みんな耳を傾け、窓の外を見る。ふと、目の前の中学生から、明治初めの会津少年を連想した。
 戊辰戦争に敗れ賊軍の子とされた彼らは勉学する機会を得るのが容易ではなかった。しかし、会津人はどこに行っても、食うや食わずでも、意欲を失わなかった。本州の北端、下北半島・斗南でも藩学校を開設し、謹慎が解けたあとは増上寺の境内に学校を設けた。東京タワーが建つ東京港区の芝公園内で、その歴史や史跡が『紙碑・東京の中の会津』に詳しい。
 どの頁にも「東京の中の会津」が息づいているが、そのなかから特に芝公園と増上寺を参照させてもらった。明治の一郎こと山東直砥が居を構えていたからである。それに加えて、大蔵経の活版印刷をした山東が世話になったのも増上寺で、会津もまた深い縁があった。いつかまた増上寺にいったら三解脱門の重量感に歴史を感じるだけでなく、いろいろ見てみたい。

        佐瀨 得所
                  幕末・明治期の書家

 1822文政5年12月11日、陸奥国会津に生まれる。
    名は恒。字は子象。通称は八太夫。別号に松城。
    幼いころから書にしたしみ、欧陽詢・趙子昂らの書をまなぶ。
    会津第一の書家と称され、備中松山藩板倉侯の姫君付き奥祐筆となる。
 1868明治元年、会津娘子軍隊長となった中野竹子の書の師でもある。
    長崎で清国の人に学び、清(中国)へ留学。書法を研鑽。
    東京で子弟に教える。
  晩年、「修斉廉節」の大字が明治天皇の御覧に浴す。

 1878明治11年1月2日、東京で没す。57歳。 墓は杉並の西照寺。
      4月、増上寺放上池の側に表徳碑「佐瀨得所翁遺徳碑銘」が、前田利嗣・寺島誠一郎ら200余名の義捐によって建てられる。碑の下には愛用の大筆が埋められた。祭文は明治の歴史家・漢学者、重野安繹(成斎)で、「新撰東京名所図会」に収録されている。
 著作・書、「楷書楽志論」「運筆階梯」「帰去来の辞」「行書千字文」「唐詩乗」など多数。

       増上寺徳水院

 江戸時代、増上寺一帯には増上寺を囲んで寺院48寺、学寮150~160軒があったようで、これらの諸寺院はそれぞれ大名の宿坊に割り当てられていた。その一つ徳水院は会津藩の宿坊であったが、戊辰戦争後、350人の旧藩士が謹慎させられた。
 ちなみに、柴五郎の謹慎場所は一橋門内の御搗屋。

    “都心にのこる幕末明治、会津藩士の収容所跡(東京都・福島県)”
   https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/12/post-c82d.html

   謹慎が解除されると、徳水院は旧藩子弟のための洋学塾仮校舎となり、1870明治3年5月5日、開校する。
   校長は竹村幸之進(俊秀)、のち*思案橋事件で斬首される。
   教官は旧幕臣の洋学者・千村五郎一人。
   生徒は選抜された、*山川健次郎・*井深梶之助・*柴四朗ら20~50名。
   千村は幕府の開成所の教官で、開成所が出版した英和辞典編纂者の一人。ただ、この千村がわずか3ヶ月ほどで去り、学校は廃止される。その後は各々で勉学の場を求め、柴四朗は早稲田の山東一郎の北門社新塾で学び(『明治の一郎 山東直砥』)、山川健次郎は沼守一の塾などで学んだのちアメリカ・イエール大学に留学する。
   短い期間ではあったが、英語や当時出版された『西洋事情』などで最新知識にふれたことは大きかった。生徒は意欲はあったがいつもお腹を空かせていて、池の魚を捕らえて食べることもあった。この徳水院はのち廃寺、今は残っていない。

 
 *山川健次郎: 明治・大正期の物理学者、教育家。東京帝国大学総長。
 *井深梶之助: 明治・大正・昭和期のキリスト教会指導者。
 *柴四朗: 東海散士『佳人之奇遇』著者。衆議院議員。長兄は柴太一郎、弟は柴五郎。

       

           思案橋事件

 1876明治9年、熊本の神風連・秋月・萩で反乱があり、東京では思案橋事件がおきた。政府に対する不満から事件をおこし、首謀者は旧会津藩士の永岡久茂(敬次郎)である。
 永岡は前原の挙兵(萩の乱)に呼応、十数人で思案橋から舟で千葉に向かった。千葉県庁を襲撃、官金を奪いその金で味方を集めようとしたのである。しかし、船頭に怪しまれ失敗。竹村幸之進もこれに加わり処刑される。
 また、柴四朗と五郎の姉の子、木村信二も一味であった。なお、甥といっても木村は五郎より年上である。木村は警官隊と乱闘になり巡査を斬って逃げたが、越後長岡で捕まり懲役十年の刑を受け、石川島監獄に入れられる。

           青 松 寺

 増上寺の北部で愛宕山の南、江戸曹洞三か寺の一つという古刹が万年山青松寺。江戸時代は貝塚と呼ばれていた。明元元二郎・陸軍大将の墓があるが、会津人の墓は見当たらない。
 この青松寺において、1922大正11年9月25日、東海散士・柴四朗の告別式が行われた。ちなみに、明石が台湾総督時代に急死したあと、台湾軍司令官となったのが柴五郎であった。時の首相原敬は武官総督制から文官総督制に変更、総督は田健次郎。参議院議員をつとめた田英夫は健次郎の孫。
          
   参考: 『紙碑・東京の中の会津』牧野登1980日本経済評論社 / ニュースで追う『明治日本発掘』1994河出書房新社 / デジタル版 日本人名大辞典+Plus  / 国会図書館デジタルコレクション 

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