岩手医科大学創立者、三田俊次郎(岩手県)
毎日新聞「雑記帳」、各地を取材中の記者が身近な話題を紹介しておりたのしみに読んでいる。ときどき切り抜くが日付の記入を忘れがち、次の記事も年月は判らない。
――― ◇ 盛岡市の小中学校で7日、国際連盟事務次長も務めた同市出身の新渡戸稲造(1862~1933)ゆかりの給食が出され、国際色豊かな料理に子どもたちの笑顔が広がった。
◇新渡戸が亡くなった地、カナダとの縁で、カナダでよく食べられる豆を使ったサラダや、「キャラメルおじさん」と呼ばれるほど頻繁に子どもたちに配って喜ばれたキャラメルが献立に加えられた(後略)
“札幌遠友夜学校 (新渡戸稲造) と 有島武郎 (北海道)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/04/post-3c9a.html
“明治:野球は巾着切りのゲーム?”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/04/post-5fb9.html
新渡戸稲造と交際があったか判らないが、新渡戸が生まれた翌年、三田俊次郎という同県人がいる。年齢が近く出身も同じ岩手県ながら、新渡戸は広く知られるが三田を知る人はどの位いるだろう。事績をみるとなかなか興味深いので紹介したい。
三田 俊次郎
1863年文久3年3月3日、盛岡磧町(かわらちょう・盛岡市加賀野)、盛岡藩士・三田義魏(よしたか)、大竹キヨの次男として生まれる。ちなみに長男は義正。
1876明治9年、下橋小(盛岡学校、旧上衆興寺、五年制)を卒業。
用教員をしながら独学で中卒の力をつける。
1880明治13年、県立*岩手医学校入学。
*岩手医学校: 同校は当初、公立岩手(病院)に併設の医学所を昇格し、公立岩手医学校(三年制)と改め、さらに県立へ。明治17年に県立甲種岩手医学校と変転。財政難で19年に廃校、岩手病院だけが残り、これに医学講習所を併設したが、21年、これまた廃止。病院も翌年、盛岡市民だけが、受益者ではと廃止された。
当局の無定見ぶりに俊次郎も義憤を感じ、後年、医療施設に情熱を燃やす動機となった。自らを“三竣医夫”と称しノートに署名、印鑑も作ったという。
1884明治17年、兄義正は県議選に出て当選。日清戦争の好況を利用し、実業界に進出、資産をなす。
1885明治18年、甲種医学校と改称され初の卒業生。助手として勤務。
1886明治19年、三等助教諭で医術開業免許状を取得したが、前述のように廃校となったため、岩手師範専任校医や、南閉伊医郡病院に勤め、ついで岩手病院医員兼調剤員となった。
三田家は資産がないわけではないが、父は病弱、兄義正は事業に失敗して、伝来の田畑も人手に渡り、経済的窮迫状態に落ちこんだ。そこで俊次郎は病院の閉鎖で職も解かれたので、早く開業医となり、自活の道と病院再建の資金にあてたいと考えた。
?年、 東京帝国大学医学部選科に入る。河本重次郎教授のもとで眼科学を学ぶ。
帰郷しして盛岡市加賀野に眼科医院を開業。
1897明治30年、閉鎖中で空いていた県立岩手病院の建物を借り受て病院を復活。
この中に設けた医学講習所を「私立医学校」として実習に便利な病院内に移す。資力を人材育成に用い、看護婦養成や医書を首とする岩手図書館もこれに併設した。
同年夏、岩手病院院長にドイツで外科学を修めた杉立義郎博士を迎え、以来、30余年間在任、評判がよかった。俊次郎は自ら院長とならず杉立と副院長には三浦を迎え、人心収攬にもつとめた。
1898明治31年、岩手育英会を発足。育英資金貸与の道を開いた。
1901明治34年、私立岩手医学校を創設、明治45年、廃校。
盛岡市議に当選。医学校など事業を進めるために政治力の必要を痛感したためで、以来、昭和4年まで6期、28年間在任。
1910明治43年、盛岡市議会、副議長に推される。
兄義正ら一族の協力をえて、岩手育英会や盛岡実科高等女学校(岩手女子高等女学校)、作人館中学、岩手中学(岩手高)、岩手商業などの創設または継承した。
1928昭和3年2月、岩手医学専門学校を設立、、初代校長に就任。
俊次郎はかねて岩手県の医療貧困を憂い、早くから盛岡に医学校を置くことの必要性を説いていた。医専の開設にあたっては文部省にいた県出身者、貴族院議員になっていた兄義正の政治活動、九十銀行役員らの協力を求め、文部省認可に漕ぎつけた。
1931昭和6年、開校3年目、全校生によるストが突発。
原因は施設の不備で、卒業しても医師の免状が与えられるかどうか、不安と不満が募ったためである。県公会堂で学生大会が開かれ、校長退陣要求、文部省に直訴する騒ぎとなった。俊次郎は全学生を無期停学処分にしたが、裏では父兄に書状をおくり説得につとめた。けっきょく、一週間で停学処分をとき、これを機に、施設や器材も整備され、医師免状も交付された。
病院としても一般外科医を東大医学部に留学させ病理解剖学の担当に、レントゲンも当時として早く診療に応用、医員二人を東大に留学させた。ヨーロッパ留学中の医員に命じ最新式のレントゲン装置をドイツから購入するなどもした。病院の最大の特徴は病院は創立当初から施療部を置き、貧困者の無料診療につとめたこと。
同6年~8年、結核患者のために岩手サナトリウム(結核療養所)
精神病患者に岩手保養院を設立。
1942 昭和17年9月、病のため死去。享年80。
兄三田義正とともに県内の文化のために大きな礎石を築いた。
・・・・・・盛岡市に於て、政治的趣味あり、事業的頭脳あり、哲学的理想あり、教育的思想あり、一種異彩ある医者の生まれたるは、洵に空前絶後の奇蹟なり、而してその奇蹟の主人公は誰ぞ、問ふまでもなく言ふまでもなく三田俊次郎なり・・・・・・(中略)
・・・・・・三田竣に大海の慨なく深井の趣あり、磊落の態なく険陰の姿あり、之を以て野心家と誤解せられ常に三割以上の損あり、岩手の一好漢、惜しむべき哉(泥牛)。
参考: <盛岡市 盛岡の先人達>盛岡市先人記念館 / 『岩手の先人100人』遠山崇1992岩手日報社 / 『岩手県一百人.第1編』阿部直道(泥牛)1907東北公論社
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