西南戦争と熊本隊、池辺吉十郎父子(熊本県)
『明治の一郎 山東直砥』を出版し2ヶ月余り。「個々のエピソードがおもしろい。教科書に載る大物に会っても気後れしない主人公が頼もしい」 「明治の会津人を書いた後に元勲寄りの人物を書いてみる。勝者と敗者が合わさっての社会なのだから・・・・・・この視点がいい」など、好意的な感想に今なお山東直砥と離れがたく、先日も東京府文書『庶政要録』(明治二十四年)<芝区内における所得税納税者>で山東を見つけた。
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1310305100/index.html
山東直砥 東京製氷社長 芝公園地33 32,730円
福澤諭吉 無職業 三田212 96,255円
幕末・明治初期、無一文だった山東を思えばずいぶん出世したものである。
西南戦争から十余年明治も半ばになると、西南戦争後のインフレーション、松方財政、緊縮財政をきりぬけ【東京買物独案内、業種別有名店】案内が発行されるほど商業が発展。それにしても、活路をみいだした者はいいが、西南戦争を戦い生き残った士族は明治をどう生きたろう。
多額の税を払えるほど資産を蓄えたり、政界進出など表舞台に登場するより思うに任せない人生の方が多そう。それでも生きていればいい、道半ばで倒れ、戦死・刑死した人々はいたましい。それを惜しむ人々は後日談を語り伝える。そうした一人が熊本藩士・池辺吉十郎、明治のジャーナリスト*池辺三山(吉太郎)父である。
“明治期、熊本出身二人の池辺、池辺義象・池辺三山”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/04/post-1350.html
池辺 吉十郎
左の挿絵は『鹿児島戦争記』(『明治実録集』新日本古典文文学大系2007岩波書店)。
右から池辺吉十郎・西郷隆盛・一人おいて桐野利秋。
なお、池辺吉十郎は肥後西郷といわれ、子の池辺三山は修業時代に東海散士柴四朗の下で教えを受けた。
右の写真は
『西南記伝 中巻』
1838天保9年1月11日、熊本京町宇土小路(熊本市)に生まれる。
1847弘化4年、藩校時習館で学び、居寮生に抜擢される。
1862文久2年、家督を継ぐ。翌3年、時習館世話役・御番方組役。
1864元治元年、京都守護を命じられ、帰藩後、第二次長州征伐のさいの小倉出兵に従う。
2月5日、長男の吉太郎(のち三山)生まれる。
1867慶応3年5月、京都詰公用人として京都に赴任するも、1年足らずで帰藩を命じられ、玉名郡代、山本山鹿郡代助勤兼務となる。
1869明治2年8月、熊本藩少参事となる。
1870明治3年、細川護久が知藩事となり実学党政権が誕生。吉十郎ら学校党の人は免職、参事を辞任する。
学校党を指導。往生院に学舎を開き、ついで玉名郡横島村に転居し私塾を起こす。
1877明治10年、西南戦争。
西郷隆盛率いる鹿児島県士族起こした反政府暴動。大久保利通ら明治新政府が国内の近代化を強力に推進しようとし、西郷らと新生国家の進路をめぐって抗争が生じた。
2月15日、「政府に問ふ所あり」として西郷を総指揮者として兵1万3千人を率いて挙兵。熊本県下を通過して北上せんと鹿児島を出発。
“西郷立つ”の報は九州各県士族に大きな期待を与え、熊本士族をはじめぞくぞくと旧士族が部隊を編制して西郷軍に加わった(党薩諸隊)。
熊本鎮台司令長官・谷干城は籠城してこれを阻止することを決定。
池辺吉十郎は鹿児島遊学の経験があり、薩摩の村田新八と話合い西郷の決起が伝わると西郷軍に呼応しようとした。しかし参加をめぐり議論が百出、紛糾したため吉十郎は憤慨。川尻の薩軍に走り、「禁闕(きんけつ禁門・御所)守護」の名目を受ける。そして大方の賛成を得ると、吉十郎は後輩の佐々友房、肥後の子弟約1300人、15小隊の熊本隊を編成し出陣。
熊本隊は県内の保守主流派である旧藩士(学校党)が主であった。諸隊最大の部隊で、総帥の池辺吉十郎は肥後西郷といわれ、誠実で度量があり士を愛した。
西郷軍はこのような士族たちを取込みながら鹿児島を飛出し、一目散に熊本へ押寄せたのである。
2月22日、西郷軍は熊本城を包囲、総攻撃を開始、籠城は4月14日まで52日間続いた。
主力は南下する政府軍を阻止するため北上したが、高瀬で敗退。以後、山鹿・植木・田原坂、吉次峠をはじめ激戦となる。熊本隊は御船・矢筈岳の戦闘に活躍。その後、薩軍本隊と各地を転戦、行動を共にしたが、ついに宮崎県長井村で政府軍に包囲された。
―――5月上旬、肥後の旧知事細川護久君は、深く旧藩士の賊徒たるを悲しみ、降伏せば、一命に換えても諸子のために寛大の御沙汰を願い奉るべしとひそかに説諭書を認め腹心に命じて赴かしめたり・・・・・・賊将池辺吉十郎は右の使いに面会し・・・・・・ありがたきことなれども、いったんかくと企て同志いたせし上は今さらとなりて変説を致すべくもあらず、事ならざればもとより賊の汚名を受けて死する覚悟なりと・・・・・・断然、旧知事の説諭を謝絶せし趣なり (東京日日新聞1877.5.24)
8月17日、西郷の解散指令により西郷軍は降伏。
主戦場となった熊本は焦土となり、人心は荒廃し、甚大な被害を被った。
池辺吉十郎は脚気に罹りて歩行自由ならざるゆえ・・・・・・ひそかに匿れ養生せしゆえ、9月1日、鹿児島へ突入することあたわず・・・・・・割腹に及ばんとする際、説諭をうけて取りやめしが、19日、病いまったく癒えければ城山へ忍び入らんと、官軍の車夫となりて入り込みたれど、警備厳重なるにより、やむを得ず戦場をうち捨て・・・・・・養生かたがたただ録録としておりたりしを、ついに去る10月15日、警視隊探偵者に縛せられ16日、宮崎の臨時裁判所へ・・・・・・(『西京新聞』1877.10.24)
10月15日、吉十郎は警視隊探偵者に捕らえられる。
10月26日、長崎臨時裁判所で死刑、斬罪された。このとき吉十郎39歳、子の吉太郎12歳。
西南の役後、吉十郎の戦友・佐々友房は熊本国権党をたて国会議員となる。佐々の同志、柴四朗は吉十郎の遺児、池辺三山と政論雑誌『経世評論』を発行。三山は主筆論説記者として才能を発揮、明治のジャーナリストとして名を上げる。
その記者時代、父の死から十年余年あまりして三山は柴四朗に同行、条約改正問題の中心人物の一人、谷干城をインタビュー。その日の谷の日記
「十二月三日土佐を発す・・・・・・此日柴氏も来る。池辺吉太郎も亦然り、吉十郎氏の子なり」
熊本鎮台司令長官として西郷軍を退けた将軍のもとに、刑場の露と消えた敵将池辺吉十郎の息子が現れた。谷は三山に敵将の面影を見いだしただろうか。
参考:『熊本県大百科事典』1982熊本日日新聞社 / 『熊本県の歴史』1999山川出版社 / 『明治日本発掘』1994河出書房新社 / 『新熊本市史』2003新熊本市史編纂委員会
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