佐渡金山、佐渡奉行川路聖謨、松浦武四郎、柴田収蔵ほか(新潟県)
どっと笑うて立浪風の(ハイ ハイ ハイ) 荒き折ふし義経公は(ハイ ハイ ハイ) いかがしつらん弓取り落とし(ハイ ハイ ハイ=以下はやし同) しかも引潮矢よりも早く 浪にゆられてはるかに遠き 弓を敵に渡さしものと 駒を浪間に討ち入れ給い 泳ぎ泳がせ敵船近く 流れ寄る弓取らんとすれば 敵は見るより船漕ぎ寄せて 熊手とりのべ打ちかくるにぞ すでに危うく見え給いしが すぐに熊手を切り払いつつ 逆に弓をば御手(おんて)にとりて 元の渚にあがらせ給う(下略)
(相川音頭・新潟県佐渡郡相川町地方の盆踊り歌) 花咲く鴇の島三日間、佐渡ツアーに友人と参加。うたい文句通りのトビシマカンゾウの群棲を堪能し、鴇(トキ)が優雅に舞うのも見た。トキの森公園へ向かうバスに揺られていたら「トキがいる!」 みれば優雅に空を舞っている。もちろん羽の色はあの鴇色、きれい。
一泊目は両津。加茂湖(淡水湖だったが今は汽水湖)の畔に泊まり、夜は♪両津甚句に佐渡おけさの実演。翌日は相川に宿泊。夕食のあと尺八・笛・太鼓の生演奏と歌と踊り♪相川音頭をたのしんだ。
笠をかぶった踊り手(立浪会)に風情があり歌声も余韻があってよかった。掛け声のハイハイハイがおもしろい。相川音頭は金山奉行の上覧にそなえる「御前踊」と呼ばれ、ハイ三つは御奉行様に気を使ってらしい。
佐渡の相川と言えば金山!見学コースが「江戸金山絵巻コース・宗太夫坑」と「明治官営鉱山コース・道遊坑」に分かれている。さて、明治鉱山を選んだのは私だけ、友人はじめツアーの皆は江戸金山を選んだ。
江戸コースは、坑道跡に坑夫の人形あり採掘作業を再現している。機械化された明治コースは変化に乏しい。いずれにしても採掘に携わった人々の困難苦労はたいへんなものだった。
採掘された鉱石をより分けた「北沢浮遊選鉱場跡」が、<近代化産業遺産の象徴「東洋一の浮遊選鉱場」>として残されている。
ところで佐渡金山は金もさることながら、銀は最盛期(慶長から元和・寛永1615~1644頃)には世界総産出額の15%を占め、幕府の財政を大いに潤した。幕府は佐渡を直轄地にし、相川に奉行所をおいて支配。
奉行所の建物は焼失と再建を5回くりかえし、その都度姿を変えて、明治維新以後は役所や学校として使われた。
1942昭和17年の火災により江戸時代の建物は失われたが、保存整備事業がはじまり、お役所(行政部分)が復元された。
再建された奉行所の立派な座敷と欄間などを目にすると昔が偲ばれ、ここを訪れた人物についても知りたくなった。どんな用事、目的で奉行所の門をくぐったのだろう。何人かみてみた。
写真、復元された佐渡奉行所と白州
川路 聖謨 (かわじとしあきら)
1801~68(享和1~明治1年)
1840天保11年6月8日、佐渡奉行の命を受ける。 佐渡奉行は定員二名。うち一人が現地佐渡へ、一人は江戸在勤。
7月11日、江戸を出発して24日、相川到着。
川路佐渡奉行の佐渡巡見3月12日
――― 北五十里村・椿村・吉住村・羽黒村・梅津村・夷町に至り小休。夫よりここにて昼かれい食べ候て、同所の御蔵・御番所見廻り、湖水を船にて巡覧。
きしのさくらなど、よき咏也。常にはここにて網引かせ、猟師にかもなどとらせてみるよし。鉄砲はさら也、網をも引かせず、湖水(加茂湖)の中央迄乗出せしままにて引きかえりし也。
夷町は東南にうみ・湖水あり、北に金北山あり、咏よきのみならず、地理ことによろし。ここの本間という某(それがし)が宿せし本陣は、即ち佐州が国主*本間が末にて、今以て豪家也(『島根のすさみ――佐渡奉行在勤日記』川路聖謨2006東洋文庫)。
*本間家: 相模国海老名氏一族の出で、1215建保3年に佐渡の守護として入国、以来佐渡を統治した。しかし、戦国時代に上杉氏に滅ぼされ、数家に分かれて佐渡に土着したという由緒ある家柄。
幕末、本間家の本間精一郎は、勘定奉行・川路聖謨に中小姓として仕え、ペリー来航時、川路が京へ赴くと本間も従った。その後、本間は勤王の志士たちと交際、江戸や京、長州などで倒幕・尊皇攘夷を唱える。その間、松本奎堂らと意気投合するが、そこに若き日の「明治の一郎こと山東直砥」がいた。山東はやがて本間の紹介状を懐に北越に赴き勤王の同志を募る。
“『明治の一郎 山東直砥』”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/03/post-375c.html
話がそれたが、川路はほぼ一カ年佐渡にいた。その間、奉行所機構の建直し、宿弊の刷新など奉行として可能な限り実施。ほかにも佐渡奉行所属の学問所、修教館の再建に尽力、佐渡風俗をまとめた書の増補追加を企図したりする。
1841天保12年5月下旬、江戸に帰る。
アーネスト・サトウ (1843~1929)
イギリスの外交官。1862文久2年来日。オールコック公使、パークス公使を助けて活躍。あるとき、野口富蔵を供に連れ、イギリス公使、パークスに従い佐渡を訪れる。
<日本役人との社交――新潟・佐渡金山及び七尾視察>
――― 我々は新潟を出て、昔から有名な金鉱地佐渡ヶに渡った・・・・・・ 冬期よく吹く西北風のために荒れて越されぬ時、外国船の碇泊できるような良港が、この佐渡ヶ島にあるといふことを、我々は新潟の奉行(ガバナー)から聞いている・・・・・・皆揃って金山見物に出掛けた・・・・・・当時そこは低い屋根をかけた窖で、半分水浸しになっており、勇敢に這入りこんで行った者は、人間の英国人といふよりもまるで溺れかけた兎のやうになって、外へでてきた・・・・・・その晩に乗艦し、抜錨して能登の七尾に向かった(『維新日本外交秘録』アーネスト・サトウほか著1938維新史料編纂事務局)。
“英国公使館員アーネスト・サトウが信頼する会津藩士・野口富蔵(福島県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/10/post-a74e.html
松浦 武四郎 (まつうらたけしろう) 1818~88(文政1~明治21年)
幕末・維新期の探検家。伊勢国出身。
1847弘化4年7月24日、新潟から両津に、船問屋・近江屋某に泊まる。
7月27日、相川。28日、石花(村長宅に泊まる)
――― 30日間佐渡に滞在したい旨届ける。身元引受人の旅館の主と役所に願いでたところ、八畳敷きの小長屋で待たされ、およそ午後3時ころになって白州に呼び出され、広間役(奉行所の要職であり地役人の最高職)が出てきて、下役と両方の縁側に出て国所並びに宗旨、年、何の用事で何処へ渡海したかを聞き糺し30日の滞在を申し付ける・・・・・・また帰国の際には役所へ届け出て湊出航の判をもらい帰ることになる(『佐渡日誌』松浦武四郎著・佐藤淳子語訳2009北海道出版企画センター)。
1854安政1年、安政大地震。藤堂藩に依頼され下田に向かう。
ロシアのプチャーチンのディアナ号、下田大地震により沈没。
1855安政2年、柴田収蔵に会う。
柴田 収蔵 (1820文政3年~1859安政6年)
佐渡宿根木に生まれた地理学者。家は農業と四十物(海産物)をしていたが継がず、蘭学の医学、天門地理学を極めた。
宿根木の古い町並みは今、吉永小百合さんが佇む観光ポスターがきっかけで観光客が増えてるとか。細い路地を歩いてみればなるほど風情がある。
1835天保6年頃から、相川の地方絵図師・石井夏海と文海親子のところに通い、地図の製作や篆刻(てんこく)などを学んだ。
1839天保10年と14年の2回、収蔵は勉学のために上京した。シーボルトにも師事したことがある伊東玄朴の塾に通って蘭学を学んだ。
1845弘化2年、宿根木で開業した。
1847弘化4年、松浦武四郎が宿根木を通過。
1850嘉永3年、三度目の上京。このころ知り合ったのが、地理学の大家・古賀謹一郎。すでに描いていたメテオ・ロッチ(イタリアの宣教師)の万国図を改訂したとされる「新訂坤輿略全図」の不審な箇所を古賀からいろいろ指摘され、助力を得て完成させる(『幕末明治の佐渡日記』磯部欽三2000恒文社)。
1852嘉永5年、楕円形政界地図『新訂坤輿略全図』を発行。カラフト・ニューヨーク・ボストンなど当時の最新情報を記し、研究の確かさがうかがえる。鎖国政策下において、世界に目を向け多くの世界地図を残した(生家跡の案内板より)。
思い違いでなければ、『新訂坤輿略全図』が明治大学図書館で展示されていたのを見たことがある。
1854嘉永7年(安政元年)ころ、天文方雇となる。
1855安政2年1月9日、江戸で松浦武四郎と会う。その後もたびたび会っている。
1月12日、松浦と同道、一勇斎国芳方へ蘭画を見物に行く。松浦の著作であるアイヌ語一覧『後方羊蹄於路志』(しりべしおろし)を相鼠斎蔵版の名で発行。ほかに『蝦夷接壤全図』などがある。
1856安政3年12月、蕃書調所絵図調出役に採用される。
1859安政6年1月12日、豊島町鍛冶吉十と松浦を訪ねる。
佐渡金山の近代 と 大島高任
1868慶応4年、イギリス人、ガワーが火蒸発法を伝える。
1875明治8年、ドイツ人、レーが洋式「大立竪坑」開削
1885明治18年、*大島高任が佐渡鉱山局長に、高任立坑などの建設を指示。
1890明治23年、鉱山学校設立、日本初。
1900明治33年、高任発電所(水力)が稼働、新潟県初。
“釜石鉄山の基礎を築いた人、大島高任(岩手県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/04/post-8322.html
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2018.6.9
朝、TVをつけたらNHK「すてき旅」は佐渡、鬼太鼓を舞う様が映っていた。そういえば、旅の途中あちらに「鼓童」の拠点があるとガイドさんが言っていた。佐渡の太鼓はもとから地元で愛されていたようだ。
旅は行く前も楽しめるが、旅の後も余韻があっていい。次はどこへいこうかな。
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