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2018年7月14日 (土)

熊本の兄弟、徳富蘇峰・徳冨蘆花(熊本県)

 ある人に、徳富兄弟の兄・蘇峰のとみは、弟・蘆花のとみはと指摘され、人名辞典をくるうち、『不如帰』を読んでいた中学3年の教室を思い出した。放課後、誰もいない教室が暗くなり窓から身を乗り出し読んでいたら、「早く帰れ!」と先生に叱られた。なぜか、あの時の夕暮れの校庭、先生の声も覚えている。思えば「本さえ読めればなにもいらない」は当時からで今も変わらない。
 たいして欲しい物もなく、人を羨むこともないから不満は少なく穏やかに暮らせてる。しかしそれでも、あんまりな目に遭うことがある。でも、いい人のほうが多いから人間嫌いにはならない。世の中にはいろいろな人が居るから、事と次第で距離をとればいい。
 ただ、他人同士なら離れていればすむことも、兄弟となるとどうか。性格が合わないときついだろう。さらに、どちらも事績のある兄弟だとより難しそう。
 以下、『不如帰』解説・高橋修「徳冨蘆花略年譜」と『現代日本文学大事典』を参照させていただきました。

     徳富猪一郎(蘇峰徳冨健次郎(蘆花) 略年譜

 徳富家は代々、細川家の惣庄屋および代官をつとめる家柄。
 徳富一敬は淇水と号し、*横井小楠の門。妻、久子の姉妹には教育家の竹崎順子、横井小楠の妻つせ子、東京女子学院長の矢島楫子がいる。

 1863文久3年1月25日、猪一郎生まれる。肥後国上益城郡杉堂村(熊本県)の徳富一敬、久子の長男。
    猪一郎は9歳で漢学塾に入る。漢詩・漢文の文体は彼の特色となる。
 1868明治元年10月25日、健次郎生まれる。熊本県葦北郡水俣(水俣市)の一敬の三男。
    明治維新後、一敬は白川県(のち熊本県)七等出仕となる。
 1870明治3年、父一敬・熊本藩庁出仕となり一家で大江村(熊本市)に移る。

 1876明治9年、神風連の乱。猪一郎(蘇峰)京都同志社英学校に転校し、12月受洗。
 1877明治10年、西南戦争。健次郎9歳、猪一郎14歳。
 1878明治11年、健次郎は5歳上の兄猪一郎に伴われて同志社に入学。ここで内外の文学に触れる。
 1880明治13年、猪一郎はキリスト教に懐疑、同志社を退学して上京。健次郎も退学し熊本に帰郷し、父が設立した熊本共立学舎に入る。10月、猪一郎帰郷。

 1881明治14年、猪一郎は帰郷して大江義塾をおこし、翌年、弟健次郎が入塾。猪一郎は地方の新聞雑誌に執筆し、板垣退助や中江兆民らと交わる。
 1885明治18年、健次郎は母の受洗を契機として、熊本のメソジスト教会で姉とともに受洗。
   今治教会の従兄・*横井時雄宅に寄寓し、伝道と英語教師の職に従事、このころから蘆花の号を用いた。
      “世のため人のため、横井小楠・時雄父子(熊本)”
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/02/post-ea3c.html

 1886明治19年、蘆花18歳、同志社3年級にに再入学。山本久栄と出会う。
    蘇峰23歳、『将来之日本』(田口卯吉の東京経済雑誌社)を刊行し文名を高める。
    12月、大江義塾を閉鎖し一家で上京、東京赤坂霊南坂に住む。

 1887明治20年2月、蘇峰は民友社を設立、進歩的平民主義的な、社会評論を主軸とした総合雑誌『国民之友』を創刊。ここから竹越三叉・山路愛山・国木田独歩・宮崎湖処子らが一群の文士が育った。
   蘆花19歳。夏休みに上京し新島襄の義理の姪・山本久栄との不幸な恋愛について両親に諭され久栄に決別の手紙を送る。精神的・経済的な行き詰まりから鹿児島に出奔。

 1888明治21年、蘆花は水俣に帰り熊本英学校教員となる。翌年、上京して民友社社員となり、校正・翻訳のかたわら文筆活動を開始する。
 1890明治23年、蘆花、『国民新聞』に移り、翻訳・評論などを担当。

 1893明治26年、蘆花、『近世欧米、歴史乃片影』(民友社)刊行。この頃より自然に親しみ各地を旅する。
 1894明治27年、日清戦争。蘇峰は大本営に従い、戦後は大総督府に従って新戦場を廻る。蘆花は同郷の原田愛子と結婚、徳富家と同じ赤坂氷川町の勝海舟邸内の借家に住む。
 1897明治30年、蘆花は前年の夏、神経衰弱になり伊豆・房州などで静養し、この年、逗子の柳家に転居。『トルストイ』(民友社)刊行。


 1898明治31年、蘆花30歳、『青山白雲』(民友社)刊行。11月より『国民新聞』に「不如帰」を連載(~翌年5月完結)。蘆花の文名は上がり、その印税収入で兄、蘇峰からの経済的独立、精神的自立を達成させた。
   蘇峰の方は、内務省勅任参事官となり政界とつながりをもつ。しかし、従来の所論と相反する行為で、世間に変節を非難されて声望を失い『国民之友』は廃刊となる。
 蘇峰には功利主義的なところがうかがわれ、潔癖な弟蘆花との不和の原因ともなったようだ。その事情は、蘆花が『国民新聞』に連載した「黒潮」を中絶したことにもうかがえる。

 1900明治33年、義和団戦争北清事変)。
   蘆花、『不如帰』(民友社)刊行、大きな反響を得る。『自然と人生』を(民友社)刊行。民友社を退社、文筆に専念する。逗子から東京原宿(東京都渋谷区神宮前)に転居。
 1901明治34年、蘆花、『思出の記』(民友社)刊行。日本基督教青年会の委嘱で『ゴルドン将軍伝』を警醒社より刊行。
   同年12月、蘆花が『国民新聞』に発表した「霜枯日記の字句無断削除を機に蘇峰と絶縁状態になる
 1903明治36年、民友社と決別した蘆花は1月、自宅に黒潮社を設立。2月、兄蘇峰への「告別の辞」を巻頭に載せた『黒潮 第一編』を自費刊行。
 1904明治37年、日露戦争。蘇峰は『国民新聞』をして政府を支持したが講話問題で新聞社は焼討にあった。
   蘆花の序文で「不如帰」の英訳『Namiko』アメリカ・ターナー社より刊行。8月、愛子と富士山に登り、頂上近くで人事不省に陥る。これを契機として心的革命を経験する。

 1906明治39年、単身、4月パレスチナをめぐり、6月ロシヤのヤスナヤ・ポリヤナにトルストイを訪ね、シベリア経由で8月帰国。青山高樹町に転居。
 1907明治40年、父一敬、受洗。
    蘆花は、東京都北多摩郡千歳村粕谷(世田谷区粕谷)に転居し、土の生活に入ろうとしたが、結局、趣味的ないわゆる美的百姓の域をでなかった。

 1911明治44年1月18日、大逆事件の被告26名に判決が下り、12名死刑執行。蘆花は独自の社会正義の立場から、蘇峰や朝日新聞を通じて助命を図ったが果たせなかった。 2月1日、第一高等学校の講演会に「謀反論」と題し処刑された幸徳秋水らを弁護、校長*新渡戸稲造らの譴責問題に発展したが、熱烈な人道主義的主張として語り伝えられている。
         “札幌遠友夜学校 (新渡戸稲造) と 有島武郎 (北海道)”
  https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/04/post-3c9a.html

   同じ2月、憲政擁護・第三次桂内閣排撃の国民運動の余波で、桂を指示する蘇峰の「国民新聞」が襲撃される。蘆花は同社再建のため兄蘇峰との交流を復活。9月、朝鮮京城で蘇峰と会見するも以後、臨終の時まで会わず。蘇峰は貴族院議員となるも大正2年、桂太郎の死去とともに政界と縁を絶つ。
 1914大正3年、父一敬、92歳で死去。蘆花、葬儀に参列せず親族との交渉を絶つ。

 1918大正7年、蘇峰「近世日本国民史」を『国民新聞』連載。のち学士院恩賜賞を得る。
 1919大正8年、蘆花は妻愛子とともに新紀元第一年を宣言して世界一周の旅に出る。
 1923大正12年9月1日、関東大震災。国民新聞社・民友社焼失。
 1924大正13年、蘆花56歳。前年の「虎の門事件」(摂政宮裕仁親王狙撃未遂)を起こした難波大助助命意見書を宮内省に上申。9月、アメリカの排日運動に憤り、内村鑑三らと執筆した論文集『太平洋を中心にして』を文化生活協会より刊行。

 1926大正15年、昭和元年、蘆花は自伝的著述『富士』第二巻を福永書店より刊行。長期にわたる執筆の疲労から千葉県勝浦に転居。
 1927昭和2年、蘆花、東京粕谷に帰宅。2月、心臓発作がおき7月から伊香保で静養。9月18日、至急電報で駆けつけた蘇峰と再会し、その夜、死去した。59歳。病名は心臓弁膜症・萎縮腎等であった。

 1929昭和4年、蘇峰『国民新聞』を退き『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』社賓となる。
 1943昭和18年、蘇峰、第1回文化勲章を受ける。戦争中は「言論報国会」に重きをなした。
 1945昭和20年、敗戦。戦後は文化人としての戦犯となり追放となった。
 1957昭和32年11月2日、死去。弟蘆花の死から30年、享年94。
   蘇峰ほど著作が多いのは類がなく、総数300冊にも及ぶ。戦後はほとんど筆をとることなく熱海に蟄居していた。

   参考:『不如帰』徳冨蘆花2012岩波文庫 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院  

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