東京田端、芥川龍之介 (東京)
平日の卓球教室、夏休みで子どもがいた。男の子も小学生はまだ可愛らしく、卓球台で向かいあえば年齢に関係なくラリーできる。時どき、上級者に相手してもらうと励みになり夢中になる。
活字中毒の昔から想像できない卓球おばさんになったが、本は本で愉しいから読んでる。いつも何かしら持ち歩き、電車・バスで座れたら読んでる。
ところが先日は本をリュックに入れ忘れ、ぼーっと田端駅で山手線を待っていた。その時ふいに田端文士村と芥川龍之介が浮かんだ。
その晩、手持ちの『芥川龍之介集』をとりだしてみたら、「東京田端」という作品があった。読むと、昔の田端は今と大違い、のどかな土地柄。田端駅のホームから見る光景からは想像もつかない。
ついでに、田端を地名事典でひくと――― 東京都北区南東部の住宅地・鉄道用地・工場地区。京浜東北線田端駅、山手線を分岐。西部は武蔵野台地住宅地、東部は荒川西岸低地の工場地区。台地の崖下を京浜東北・山手線が通じ、東北本線が通る。機関区・貨車操車場が広がる。
でも平成30年の今、機関区・操車場は子どものころから見なれた,線路が何本も並ぶ広い機関区ではなく、さびしい。
東京田端
1889明治22年、上野に東京美術学校(東京藝術大学)開校。田端は明治の中頃、雑木林や田畑の広がる閑静な農村だが、若い芸術家が次第に集まるようになった。
1899明治32年、日本列島における代表的な日本のゾウ化石ナウマンゾウは、北海道から沖縄にいたる各地から産出している。東京の田端駅の近くで、ゾウの臼歯2点と1本の“キバ”(切歯)の先端部の化石が掘り出された(『秋田県のナウマンゾウ化石』渡部均ほか2005秋田県立博物館)。
1900明治33年、小杉放庵が田端に移住。
1903明治36年、板谷波山が移り住むと、吉田三郎(彫刻家)、香取秀真(鋳金家)、山本鼎(洋画家)らが次々と田端に住むようになり、親睦団体「ポプラ倶楽部」も生まれ、明治末期には芸術家による「芸術村」のようになった。
1914大正3年10月、芥川家は東京府下豊島郡滝野川町字田端435番地に転居。ここは郊外で、武蔵野の原野の面影をとどめていた。
1916大正5年、室生犀星が田端に住み始める。
――― 彼らの文士としての名声が高まるにつれ、萩原朔太郎、堀辰雄、菊池寛、中野重治らも田端に移り住むようになり、大正から昭和の初めにかけて、田端は「文士村」となる(北区文化振興財団 http://kitabunka.or.jp/kitaku_info/index.php )。
同3年2月、龍之介は「鼻」を師と仰ぐ夏目漱石に激賞されたが、12月9日漱石の死にあう。同年7月、東京大学卒業。12月、海軍機関学校の嘱託教官に就任し鎌倉に下宿。
1919大正8年、前年に塚本文子と結婚、機関学校を辞し大阪毎日新聞に入社。田端に居をさだめ、書斎を我鬼窟と号し、新進作家が出入りするようになった。また、俳句を通じて高浜虚子と交流しはじめる。
東京田端 芥川龍之介
時雨に濡れた大木の梢。時雨に光ってゐる家家の屋根。犬は炭俵を積んだ上に眠り、鶏は一籠に何羽もぢつとしてゐる。
庭木に烏瓜の下つたのは鋳物師(いもじ)香取秀眞(かとりほづま)の家。
竹の葉の垣に垂れたのは、画家小杉未醒(こすぎみせい)の家。
門内に広い芝生のあるのは、長者鹿島龍藏(かしまりゅうぞう)の家。
ぬかるみの路を前にしたのは、俳人瀧井折柴(たきいせっさい)の家。
踏石に小笹をあしらったのは、詩人室生犀星(むろうさいせい)の家。
椎の木や銀杏の中にあるのは、――夕ぐれ燈籠に火のともるのは、茶屋天然自笑軒。 時雨の庭を塞いだ障子。時雨の寒さを避ける火鉢。わたしは紫檀の机の前に、一本八銭葉巻を啣へながら、一遊亭の鶏の畫を眺めてゐる。
父ぶり 芥川龍之介
――室生犀星に――
庭んべは
浅黄んざくらもさいたるを、
わが子よ、這い来。
遊ばなん。
おもちやには何よけん。
風船、小鞠、笛よけん。
田端の里 室生犀星
自分は殆ど庭の中に隈なきまでに飛石を打ち、矢竹を植え、小さい池を掘り、郷里の磧にある石を搬び、庭は漸く形をつくって・・・・・・
自分が此の田端に移ってから既う十年になるが、*「江戸砂子」にある生薑の名所である田端の村里は文字通りの田舎めいた青青しい生薑の畑と畑の続いた土地だった。
根津の町へ出て藍染川となる上流は田端の下台にあったが、音無瀬川と呼ばれていた ・・・・・・ 今の谷田橋付近は大根や生薑の洗ひ場になってゐて女等の脛もみられる「江戸砂子」の風俗と俤とを昔懐かしく残していた(後略)。
(『庭と木』室生犀星1930武蔵野書院)
*江戸砂子: 江戸の地誌。全6巻。略図・挿絵入りで、内容も系統だっていて広く流布。
1922大正11年、書斎の号を澄江堂と改める。この頃から不眠に悩み健康が衰える。しばしば転地療養したが健康すぐれず、家庭内の煩事にも苦しむ。
1926大正15年、狂死した母や父・姉など骨肉の死を語った短編「点鬼簿」を発表。
1927昭和2年、精神と肉体の衰弱は激しく、時代の動向にもうながされて思想上・芸術情の懐疑と動揺も深刻化する。
7月24日未明。芥川龍之介、田端の自宅で服薬自殺。枕元には「旧新約聖書」、「文子殿」、「わが子等に」、*菊池寛宛など三通の遺書。ほかに「或旧友へ送る手記」があり、そこに<ぼんやりとして不安>というのが書かれていた。龍之介の死は、知識人に時代の危機と不安を告げる指標として大きな反響をよんだ。
*菊池寛:(きくちひろし) 大正・昭和期の小説家、劇作家。芥川龍之介と一高同期。
1934昭和9年2月24日、*直木三十五死去。
1935昭和10年、菊池寛は文芸春秋社社友の芥川龍之介、続いて直木三十五が没したのを悼み、友人の名を記念して、新進作家に文学賞を贈ることを発意した。
第一回受賞、石川達三「蒼氓」、第四回・石川淳「普賢」、若いとき読んだせいか今も印象深い作品だ。
“ある早稲田つながり、北門義塾・内ヶ崎作三郎・*直木三十五②-1”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/12/post-0110.html
“ある早稲田つながり、北門義塾・内ヶ崎作三郎・*直木三十五②-2”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/12/post-e289.html
参考: 『芥川龍之介集』日本現代文学全集1960講談社 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『日本地名事典』1996三省堂
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