« 医家・郷土史家、鈴木省三 (宮城県) | トップページ | 百年過ぎてなお現役、石橋・眼鏡橋 (熊本県) »

2018年8月11日 (土)

南部桐、江戸から明治 (岩手県)

 平成30年、暮らしが驚くほどのスピードで変化している。電車やバスに乗ると前後左右でスマホを見ているし、速くて便利は家電にも浸透している。家具も豪華婚礼セットなど広告でもみかけないが、わが家にもない。ただ母が使ってた桐の箪笥、できれば欲しかった。しかし、価値観の相違かして母の死後、捨てられてしまった。
 さて、タンスなどに用いられる桐は、切りに由来し成長が早く、切ってもすぐにのびる。材は木目が美しく、狂いが少ない。また、湿気を通さず家具材として重要であった。その桐は日本各地で生育するが、南部桐は材質すぐれ名木とされ、岩手大学のバッジにもついている。

 ところで、中国では梧桐すなわちアオギリに鳳凰が住むとされる。この梧桐がキリと誤って日本に伝わり、キリはめでたいものとされ紋章に使われるようになった。なお、桐の紋章は豊臣秀吉がよく知られるが、数種類ある。

         南部桐

 1713正徳3年、屋敷のいぐね(屋敷の回りに植えた樹木)には、いろいろな樹木が植えられ、「桐の木」もその中に入っていた 
  ――― (昭和40年代)九戸郡の農村を歩くと、屋敷の回りに桐の木を植えている農家が多いのは、いぐね奨励の遺産だったのか、南部藩もなかなか味な事をしたものである。
  ――― 農家は「娘一人生まれたら桐の木植えろ」と言い伝えている。身上で5本植えたり、10本植えたりはしても、桐を植え、たんすの一棹ももたせてやりたいのが親の人情である。これがたんすになったり、げたになったり、火ばちになったり、村の祭りの踊り面になったり、獅子頭になって、人びとの息災を祈ったとすれば、用途も広い(森嘉兵衛岩手大教授)。

  ――― 南部桐の本場は、旧南部領内の至るところにあって・・・・・・ その品がいかにも日本一なのは、陸中下閉伊郡の刈屋村・茂市村・川井村、九戸郡の山根村・山形村、稗貫郡の川目村地方。要するに南部桐は、北上山脈の山間部で生産。

 1826文政9年、九戸郡大野村(洋野町)晴山吉三郎が「桐200梱」江戸に輸出。
 1844弘化元年、岩泉の佐々木彦七が、鉄を輸送する船に「日よりげた用」に石数15石を輸出し「南部桐」の声価をあげ、輸出を続けた。江戸の人口は100万を超え、下駄の需要があった。

    余談ながら、幕末から明治に幅広い分野で活躍した柳田藤吉という政商がいる。柳田は若いころ北海道に渡る前、下駄の行商をしていてとても貧しかったという。しかし南部桐の産地の出なら名産品を売っていたわけで、極貧だったのかどうか。極貧は成功を引き立てるエピソードかも。
   “柳田藤吉/貿易ことはじめ(岩手・北海道)”
 
 1852嘉永5年、「大迫通(稗貫郡内川目村地方)の桐は佐賀丸太より上品にして・・・・・・琴に作り候はば、音ふくみ候ゆえ音響き申すべく候・・・・・・」南部藩山林植立吟味役・栗谷仁右衛門の建白により嘉永年間、領内くまなく、桐の植林が奨励されたもよう。

 1872明治5年、岩手県令・島惟精、蚕業奨励の一端として、東京府および埼玉県から桐苗数万本を輸入し、県下に配布。成績、評判ともによかった。
    ちなみに埼玉桐は、埼玉岩槻がかつて南部領であったことから南部桐が原産と思われる。

 1876明治9年7月、明治天皇東北巡幸
    岩手県庁で物産を展覧に供したおり、桐日和下駄と足駄一足が買い上げられた。

 1877明治10年ごろまで、抑木村付近一帯にわたり天然の桐樹が豊富だったので、住民は貴重と思わず伐採利用していた。
    タンス・長持・刀槍入れ・証文箱・米びつ・棺(早桶)・味噌桶・雨戸板・縁側敷板・板屏風・足駄・下駄・障子の腰板・欄間・落掛・柱隠しなど。その後、村外移出が多くなり、桐樹が少なくなってしまった。

 1879明治12年、刈屋村の小学校教師・斎藤善四郎は桐樹を増やそうと考えた。
    公務の余暇に気仙郡より根苗を購入して、苗木を養成する方法を研究。やがて分根造林の方法を考案し、地元民に桐樹の蕃殖法を教えた。

 1884明治17年以後、篤農家・西里代三郎、久保田儀三郎、小山田舜二、小山田直喜、中屋舗石松、染谷大助などの人々の努力によってもりかえし、南部桐の本場として栄えた。
    なお、仙台・釜石も南部桐を産し、この地域の桐は小南部桐と呼ばれた。

 明治政府は、万国博に参加した経験を通じ、勧業政策のなかに「博覧会」を位置づけ、農産品・鉱物・工業製品などを全国から蒐集し展示した。
 第一回内国勧業博覧会が1877明治10年、開催された。
 第三回は1890明治23年4月、開催され人気だった。岩手県も寄木製器・鉄瓶・麻などが入選した。
 以後、1903明治36年までに東京・京都・大阪を会場に5回催された。

 桐の和歌や俳句が『桐造林法』に掲載されているが、作者不詳。

    桐の葉もふみわけかたくなりにけり 必ず人を待つもなければ
     我か庵は二本の桐の若葉かな
     桐の実や眺め久しき秋の色
     鐘の声鐘の声桐の人は落つ
     桐二葉つづいて落ちて暮れにけり

 

   参考: 『桐促成栽培の栞・後編』西村儀之助1922永盛舎 / 『桐造林法:附・南部桐』北川魏1920三浦常吉)/ 『樹木大図鑑』1991北隆館  / 『民間学事典』1997三省堂 / 『岩手をつくる人々 近代編』森嘉兵衛1974法政大学出版局

|

« 医家・郷土史家、鈴木省三 (宮城県) | トップページ | 百年過ぎてなお現役、石橋・眼鏡橋 (熊本県) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 南部桐、江戸から明治 (岩手県):

« 医家・郷土史家、鈴木省三 (宮城県) | トップページ | 百年過ぎてなお現役、石橋・眼鏡橋 (熊本県) »