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2018年8月25日 (土)

秋田魁新報の明治 (秋田県)

 1945昭和20年の太平洋戦争終戦から72年、平成最後の夏。父母に戦中戦後の苦労話を聞いた自分世代も高齢化した。出征した人はさらに年を重ねている。戦争の記憶は遠ざかるばかり、先を思い不安がよぎる。不安が杞憂に過ぎないことを願う。
 まあ心配してても落ち着かない、楽しみを見つけよう。それにはスポーツがいい。自らするのもいいが、観戦が楽しい。その最たるものが甲子園の高校野球ではないか。ひたむきにプレーする若者の汗と涙がテレビ画面からも伝わり、目に沁みる。

 大正時代から始まった全国中等野球大会、1918大正7年は米騒動で中止になった。その後1941昭和16年は戦局深刻化、続いて太平洋戦争のため6年間中止された。
 1946昭和21年、第28回野球大会、再開。優勝は大阪の浪華商。
 1948昭和23年、新制高等学校が発足、福岡の小倉高校が第30回大会優勝。それから70年、平成最後の夏、2018年第100回記念大会優勝は大阪桐蔭

   私立大阪桐蔭の創部は1988昭和63年第70回、広島商が優勝した年である。その30年後、大阪桐蔭は実力通りの力を発揮して2度目の春夏連覇を達成、伝説をつくった。
 ところで、決勝の相手は今大会屈指の人気校、公立金足農業高校。世間は金足農業に肩入れしがちで自分もその一人だが、<甲子園で春夏連覇した大阪桐蔭の副主将・根尾昂さん(18)>を読み、強者の頑張りにも拍手しようと思った。

  ――― (根尾さん)岐阜県飛騨市生まれ。両親はともに医師で、地元の診療所に勤務する・・・・・・ 大阪桐蔭校に進学し寮生活。普段は人里離れた生駒山にあるグランドと学校を行き来するだけで、携帯電話も禁止だ・・・・・・ 前回大会3回戦で九回2死からの逆転サヨナラ負けにつながる失策を犯した中川卓也選手が主将に選ばれると、「サポート役に回りたい」と副主将として支えてきた・・・・・・ 遠征帰りのバスでは静かに本を読む。先輩からも「根尾さん」と呼ばれ・・・・・・(毎日新聞[ひと]高橋秀明2018.8.22)

 金足農業は決勝戦まで5試合を投げ抜いた吉田輝星をはじめメンバー全員が地元秋田の出身という今どき珍しいチーム。しかも公立で校歌の歌いぶりがまたいい。
 公立高校として春夏通じての決勝進出は第89回平成19年の佐賀北以来の快挙という。さらに秋田県勢としては、1915大正4年の第1回大会以来103年振りの決勝進出である。<金農フィーバー>も不思議ではない。
 吉田輝星投手も生身の人間、投げ抜けず、5試合目に力尽きて準優勝となった。それでもみんな大喜び、空港に1500人余りが出迎えた。ちなみに出発のときは30人ほどという。当分、マスコミは金足農業を追いかけ私たちもその情報を喜んでいる。明るいニュースはいくらあってもいい。 ちなみに号外発行の「秋田魁新報」が103年前の金農の記事を再掲載したら味わい深そう。
 2018.8.23電子版秋田魁新報 https://www.sakigake.jp/ に“金足農へ寄付金1億9千万円 1000人前に報告”とあった。それで練習環境が充実、メンバーが替わってもまた甲子園旋風を起こすといい。

              秋田魁新報の明治

 1873明治6年7月(明治7年とも)、遐邇新聞創刊。
   遐邇は「かじ」とよみ、遠いと近いと、遠近のこと。

   「遐邇新聞」は、権県令(県知事)国司仙吉が県の布告を印刷させるため、東京から柴村伝次郎を招き印刷所を経営させ、ついで付属事業として新聞を発行させたのである。発行は数百部で当時としては成功。記者は漢学者の狩野徳蔵(旭峰)、部下は鳥山棄三。
   遐邇新聞の命名者は狩野良知(かのうりょうち、1828~1906)、秋田藩大館の陪臣。狩野の著作を北国旅行中に大館へ立ち寄った吉田松陰が1853嘉永六年、持ち帰って松下村塾で刊行した『三策』が有名(『古本倶楽部18』秋田公文書館古文書斑)。

   新聞の体裁:表紙とも10枚の日本紙四号清朝活字冊子綴り。表紙に題号のほか「官許」「聚珍社発兌」「三銭五厘」などの朱印を押捺。裏面には本局秋田県下茶町菊の町聚珍社、同支局東京小伝馬町三丁目 吉岡重次郎、売弘所県下上肴町小谷部甚左衛門、編輯者 鳥山棄三、印刷者 菅又謙二。

 1875明治8年12月、「秋田遐邇新聞」。用紙は洋紙となり、主幹は江帾運蔵。
 1879明治12年9月5日、橋本一止10ヶ月の禁錮に処せられる。
    ――― 当時、藩閥政府に民間有志は筆舌をもって反抗し、政府は刑罰をもって言論を圧迫した。「遐邇新聞」はもともと報道新聞にして言論機関に非ず、評論はなくして報道のみあった新聞、如何なる報道が有司の忌諱にふれ、橋本氏が筆禍を買ふに至ったか全く不明である。言論界における本県最初の犠牲者として同情に堪えない・・・・・・ 惜しいかな間もなく二十代にして早逝した(*安藤和風、のち社長)。

 1881明治14年11月、「秋田日報」発行。
 1887明治20年11月、「秋田新報」発行。休刊した「秋田日報」の大久保鉄作らによって発行された改進党系新聞。
 1888明治21年12月、「秋田新報」発行停止。

 1889明治22年2月15日、『秋田魁新報』発行。秋田市大町一丁目14番地。
    発行停止となった「秋田新報」の解除をまたず再起を企て、『秋田魁新報』発行し秋田県の代表紙となり今にいたる
 社長は古村精一郎。社説記者・武塙裕吉、古村精一郎、井上勇、阿曽村秀一、倉田義一、島田晋作。社員、編集局58名・業務局94名。
発行部数59.600部。使用通信・共同通信(『新聞要覧』日本ノ部 昭和21年版)。

   地方新聞の発行は、それぞれの地方の人心を啓発し、文明の開化をうながす力となった。その一方で新聞をとりしまる新聞紙条例と讒謗律が発布された。

 1892明治25年6月6日  官報2680号
   ○ 発行停止 宮城県下発行ノ民報第四十四号 秋田県下発行ノ秋田魁新報第九百九十四号ハ治安ヲ妨害スルモノト認メ本月三日 孰モ発行ヲ停止シ同号未配付ノ分発売頒布を禁止セリ

 1895明治28年10月22日  官報 3695号 
   ○ 発行停止 東京府下ノ読売新聞一昨二十日号外、秋田県下発行ノ秋田魁新報第一千九百十一号 及 鳥取県下発行ノ鳥取新報第二千百四十三号は孰モ治安ヲ妨害スルモノト認メラレ読売新聞ハ一昨二十日、他ノ二新聞ハ昨二十一日、各々発行停止且つ右号外又ハ以上各号未配布ノ分 発売頒布ヲ禁セラレタリ  
   同10月28日  官報 第3700号
   ○解停 曩ニ発行ヲ停止セラレタル秋田魁新報ハ昨二十七日ヨリ解停セラレタリ

 1898明治31年、*安藤和風『秋田魁新報』に招かれ、3年後に主筆となる。
     *安藤和風(1870~1943): 明治・大正・昭和期のジャーナリスト・俳人。
    秋田日日新聞に1882明治15年入社。秋田青年会を組織し自由民権運動に参加。上京して職業を転々としたのち入社した。
 1923大正12年、安藤和風、代表取締役となり、新聞人として地方文化に尽くした。東北の俳人としてもしられる。

 1927昭和2年、『大正天皇御一代画報』を刊行。
      http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1015655 で画像がみられる。

   参考: 『秋田五十年史』安藤和風1932秋田郷土会 / 『明治時代の新聞と雑誌』西田長寿1961至文堂 

 

 

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