医家・郷土史家、鈴木省三 (宮城県)
世の中広いと思うことがある。たとえば、“けやきのブログ”を読んでくださる人たちがいること。感謝しつつパソコンにお辞儀してる。採りあげたい人物・事柄を探しているとき、記事に反応があるときもそう思う。自分が知らないだけで世間は「とっくに知ってる」事は幾らでもある。
今回の鈴木省三も知っている人は知っているでしょう。医師で郷土史家、ふたつながら立派な業績を残し興味をもった。しかし、恵まれた環境にあって研究に邁進したのではなかった。家庭的には厳しい事情があり、戊辰戦争、日清戦争、日露戦争を体験、生活に窮したこともあったのだ。そこで、できるだけ詳しい年表をと、古い『宮城縣史・人名編』、国会図書館デジタルコレクションの鈴木の著作などを参考に記してみた。
鈴木 省三
1853嘉永6年2月26日、宮城県岩沼本郷同心町で生まれる。父、鈴木成則は仙台藩岩沼邑主の医家でその長男。号は雨香。
1863文久3年、10歳で父を喪う。
1864元治元年、11歳で剃髪し青小坊主となり仙台藩岩沼邑主・岩沼家の侍童となる。
1866慶応2年、古内家から学資(二人扶持を給される)仙台藩主の薬医・石田道隆について薬学を学ぶ。
医事のほかに、師から文字を自由自在に使用できるよう漢詩の勉強も指示された。
著書『仙台風俗志』の略歴に、詩や医業を学ぶ様子が絵入りで紹介されている。なお、同書には索引があり、当時は目次もない書物もあることから、索引があるのは珍しく参考になった。
1868明治元年、戊辰戦争。家録を減じられ、扶持米も給されずやむなく岩沼に帰郷。
1870明治3年、山本家に寄食して医業を学ぶ。
1872明治5年、石田道隆の子が共立病院と医学校を開いたので、入学する。
1873明治6年、生徒監となり調剤方、診察方、ついで古川病院分院調剤試補。
1874明治7年、登米病院が開設、薬局生となる。
1876明治9年、選抜され院費医学生として東京大学医学部別科薬学科に入学。
1879明治12年、東京大学医学部薬学科を卒業。宮城病院薬局長&薬学教授となる。
1881明治14年1月、結婚。
1882明治15年、宮城県医学校・三等教諭&薬局長。まもなく共立病院に移る。
1883明治16年、仙台区立施療所主任。翌17年、開業医の免許を得る。
1886明治19年、検疫医を命ぜられ牡鹿郡荻浜に出張。
――― 荻浜は一人の発生者もなかった。村人に「良水を求め置くよう命じ、井戸を掘り、72戸から発病者を見いださざりしなり」・・・・・・当時、コレラ最も猖獗し神戸・横浜・函館・石巻・塩釜も続々として発生。
1887明治20年、薬学校を南町源三郎方に開設。入門者12名。のち本荒町に移る。
1888明治21年、製氷用水検査を命ぜられ各郡巡回。
1889明治22年、仙台区の種痘医を命ぜられる。翌年、検疫医を命ぜられ荻浜に出張。
1892明治25年、衛生展覧会を統括、別室に医術関係のオランダ書器を陳列。
『仙台史伝』(静雲堂)出版。
1893明治26年、名古屋の大日本私立衛生総会に出張。仙台叢書『封内風土記』
1894明治27年、日清戦争。
陸軍雇員を命ぜられ、第二師団工兵第二大隊補充中隊・雇医として3ヶ月勤務。
1895明治28年、43歳。宮城県警察部保安課雇い、衛生事務に当たる。
日清戦争帰還兵からコレラが各郡に感染、塩釜・石巻はもっとも猖獗を極め、これに死を賭してあたる。
1896明治29年、三陸津波。救護事務に追われる。
名取郡玉浦村に赤痢発生。
天然痘流行で栗原郡出張、ついで細倉鉱山の衛生状態を視察する。
1897明治30年、遠田郡大貫篦嶽二村に肝臓ジストマ発生。27名を診察し予防摂生を指示。同病に罹った猫2頭の病肝をアルコールに浸して持ち帰り、勝留田知事に報告。
1898明治31年、内務省の各府県衛生主任会議のため上京。12月、警察部衛生課長。
1899明治32年、妻が精神疾患を発症。妻は幼い子どもたちと生家に帰る。
1890明治33年、衛生課長を免ぜられ、検疫官のち、検疫委員となる。
1903明治36年、検疫委員を免ぜられ蓄財もなく岩沼に帰る。
1904明治37年、日露戦争。
6月、再び検疫委員。岩沼から通勤。仙台の家(本荒巻町)を売って田畑を買う。
1905明治38年、53歳。気候不順、農作物被害は天保飢饉の兆しと世間一般悲しむ。
『衛生の栞』鈴木省三編(雨香園)発行。
1906明治39年、前年の収穫無しにもかかわらず納税は免ぜられず、また検疫委員廃止となる。生活が困難となり、宮城県私立衛生会の事務員となる。
1907明治40年、農作物は収穫の3分の1、生活はますます困難に。夏と秋だけ検疫委員として50円を受け細ぼそ生計をたてる。
1908明治41年、辞職。毎年、凶作なので田畑5反を売りこれを郵便貯金にする。三女のみつゑ、東華高等女学校に入学。
1909明治42年、町会議員に当選。
――― 魚商の黄疸にかかりたるを治し、余が医師なることを知りたり・・・・・・ 往々往診を頼まれしが迎えの人を留守居に頼みおき、帰宅してその人に薬を与え帰らしむ、笑うべきか悲しむべきか。但し、これがため幾ばくかの収入を得て生計の補いとなしたり。天は無禄の民を生ぜずと、信なるかな。
1910明治43年、みつゑ卒業、岩沼小学校教員となる。
7月17日、天保以来の大洪水 ――― 柴田郡槻木町弓ヶ崎が決壊し床上2尺の溢水。夜が明けても水が引かず、迎えの舟で笠島屋に避難。翌朝、帰宅せしに猫児喜び跳ね回り小箪笥を泥水中に踏み落とし書類ことごとく水に浸り。殊に惜しきは凡そ70枚の辞令書は手を付けられぬ程となり、終に暑熱のため腐壊したり。
1911明治44年5月、手続きせず治療するは不都合とのことで医師開業届けをだす。
10月、妻子を引き取るよう妻の実家にいわれ引き取ることに。
1912明治45年・大正元年、妻は来ず、娘みのり、みゆき(小学生)を迎え入れる。
1913大正2年8月27・28日、再び大洪水。弓ヶ崎と白石川白幡堤防決壊、前回よりひどく床上浸水4尺。
1914大正3年、みつゑは亘理郡の千石氏に嫁し、みのりは女子職業学校、みゆきは宮城女学校へ入学。翌年、田5反を売り娘たちの学資にする。
1916大正5年、アメリカ留学していた息子、兒成雄が15年振りに帰国。
5月5日、県より無給看守を命ぜられ松島公園事務所に移る。
1917大正6年1月、65歳。瑞巌寺徒弟5人に経書の講演をし手当を受ける。
1918大正7年、兒成雄が神奈川県巡査を志願し妻子を携え出発したので岩沼に帰る。
1919大正8年、蘆東山の旧稿改集をその孫に依され、14巻を完了する。
1920大正9年、宮城県主催・道府県連合共進会準備事務局総務部部員を命じられる。
1922大正11年、70歳。仙台叢書刊行会編集主任となる。
史蹟名勝天然記念物調査委員となり、22ヶ所の調査にあたった。郷土の歴史や人物について調査研究し、種々の講演会、論文、著作など成果を発表。仙台郷土研究の基礎を築いた。
1923大正12年5月8日、妻死去。
――― 発病後、生家に在る23年にして没す。何等の悲運ぞや。
1924大正13年、瑞巌寺内に転居。毎週日曜日に出張一泊して徒弟に講読をするが、遅々として進まず徒弟の進学のため刊行会を辞して転居。
1925大正14年、流行感冒(インフルエンザ?)にかかり入院。後日、東二番町へ転居。
1926大正15年、仙台医師会が鈴木の著作『東藩日新医事略説』出版、会員に配る。
1927昭和2年、75歳。松島新富山下の瀬戸勝別荘に転居。
――― 松島瑞巌寺の若い修行僧の教育に当たり、電灯を用いず、日没とともに就寝、朝光とともに起きる生活をつづけた。
1928昭和3年、『支倉常長伝記・ふらいルイスそてろ略伝』 『林子平伝記』出版。
『宮城郡誌』(宮城郡教育会)に序文。
1931昭和6年7月7日、松島林下小塾にて執筆。
1937昭和12年、『仙台風俗志』(雨香園)出版。没後、続編出版される。
1939昭和14年1月28日、感冒のため松島法雲荘で没。87歳。
瑞巌寺で葬儀が行われ、岩沼の法常寺に葬られる。岩沼市鵜ヶ崎城跡に頌徳碑が建つ。
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鈴木省三について、子孫の方より、次の著作の紹介がありました。
宮城県立図書館にても閲覧できます。
宮城の郷土史家・吉岡一男著
『鈴木雨香の生涯と岩沼』
2003年 鈴木雨香生誕一五〇年顕彰会
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コメント
鈴木省三を とりあげていただきありがとうございます。よろしければ、ご連絡いただけますと幸いです。宜しくお願いいたします
投稿: 鈴木良太 | 2019年8月14日 (水) 00時15分