百年過ぎてなお現役、石橋・眼鏡橋 (熊本県)
ブログをはじめて約10年。はじめは『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』を広めたく、かたわら本の話など書いてきた。しかし、2011年東日本大震災が起き、その地域の近代にふれてきた。熊本地震が起きてからは熊本もかいま見た。そうしたら、東北に限らずどこにも困難苦労の歴史、お国自慢があると改めて気づけ、よかった。
そうして他所を知るにつれ、あちこち、いろいろと興味は広がるばかり。近くの見なれた川や橋の由来も気になる。いつか調べてみようと思いつつも行き交う人を眺めるだけでお終い。いつかは来そうもない。
ところで、今日は平成最後の終戦記念日。
これまで幾つもの戦争がありその都度、ふるさとの橋を渡って出征した兵士がたくさんいた。でも、中には渡ったままの兵士もいる。橋には辛い話もあれば、橋の真ん中で再会を喜ぶ明るい話もある。昔から、橋物語のタネは尽きない。今回は明治初年に架けられ150年過ぎても現役の橋が、幾つもある熊本県をみてみる。どの橋も地震の被害を受けていませんように。
郡代御詰め所眼鏡橋
?年、 八代郡宮原町。肥後の石工・岩永三五郎が造った約10mのアーチ式石橋。
岩永三五郎: 七百町新地築造のさいは石工総引回しをつとめる名工で、のち鹿児島藩に招かれて甲突川に五つの眼鏡橋をかけた。
雄亀滝橋(おけたきばし) 県重要文化財
1817文化14年、郡代・不破敬次郎、砥用手永の惣庄屋・三隅丈八、石工・岩永三五郎らの協力によって柏川井出に建設された。
この橋の完成により、四万丈(750m)北麓の石野の水田をうるおす柏川の用水が開かれ、農民の苦労がやわらいだ。完工後160年たった今も、昔のままに通水橋として使われている。
岩本橋(眼鏡橋) 県重要文化財
?年、江戸末期から明治初期の架橋。
全長32.7m・幅3.4m・高さ7.4m、阿蘇溶結凝灰岩製の眼鏡橋。
熊本県荒尾市と福岡県大牟田市の県境を流れる関川にかかる姿の美しい二重の石橋。このあたりは旧藩時代には、肥後と筑後の境目にあたり、岩本口番所が置かれていた。
関川は川幅が広く岸も低いため、2つのアーチ型が採用され、中央の橋脚には、水の抵抗をやわらげるための水切りの工夫がみられる。橋本勘五郎の作といわれ、欄干中央に菊の紋が刻まれ、橋脚に水切りがある。
橋本勘五郎(丈八): 東陽村種山(八代市東陽町)の石工。のち、明治政府にまねかれ、東京の日本橋、皇居二重橋の建造にたずさわった肥後の名匠。
東陽村: 県の中西部に位置する農山村。種山・河俣が合体して東陽村となった。幕末から明治へかけて、肥後の名匠、種山石工の里としてしられ、東陽村石匠館がある。
秋丸眼鏡橋
1832天保3年、水流量を調節する分流版をそなえて架橋された。
霊台橋 国指定重要文化財
1847弘化4年、熊本県のほぼ中央を東から西に流れる緑川上流部にかけられた国内最大規模の石造アーチ橋
惣庄屋・篠原善兵衛が出資し、地元の石工・卯助・丈八(のち橋本勘五郎)や大工・伴七らによって架けられた。緻密な石組みの美しさには目を奪われるという。
全長89.86m・幅5.45m・径間28.36m・高さ17.9m。
霊台橋の路面は川の両側よりも3~4mも低く、橋を渡るには階段で路面におりる。
1900明治33年、橋を通る道路が県道とされ、自動車の通行のため改造された。
1967昭和42年に重要文化財指定。 1980昭和55年に復元工事が行われ江戸末期に建設された当初の姿に戻された。今は歩行者専用。
高瀬眼鏡橋
1848嘉永元年、高瀬町奉行・高瀬寿平によって町会所・高札場から裏川を渡る大渡口に架橋。
全長15m・幅4m、スパンドレルの径6.7mの規模をもつ阿蘇溶結凝灰岩製の二重橋。
重盤岩(ちょうばんがん)眼鏡橋 県指定重要文化財
1849嘉永2年、津奈木手永惣庄屋・衛藤三郎左衛門為経らの尽力によって、種山石工・岩永三五郎の弟・三平が造ったと伝わる。今も使用に耐え、優美な曲線を水面に映している。 全長18m。
重盤岩: 重盤岩眼鏡橋の真上に切り立つのが重盤岩で、この山一帯が津奈木城跡で、支配はたびたび入れ代わり、加藤清正が肥後の領主となると、島津氏の防衛戦として整備された。
このほか町内に、中村・浜・新村・金山・中尾・瀬戸など個性的な9基の眼鏡橋がある。
石水寺の眼鏡橋
1854嘉永7年、人吉市下原田町の石水寺の門前を流れる川に建造。
全長21.4m・幅2.7m・高さは7.1m。渓谷上に優美な曲線を描いている。
なお、人吉・球磨地方には、江戸時代から昭和時代までの石橋が17基存在する。
通潤橋(つうじゅんきょう) 国指定重要文化財
同年8月、緑川支流の五老ヶ滝川(轟川)の渓谷にかかる石造単一アーチ橋。
全長75.6m・高さ20.2m・幅6.3m・アーチ径27.9m。
矢部の惣庄屋・布田(ふた)安之助が、五老ヶ滝川南西の長原台地開拓のための潅漑用水を通す通水橋として、1年8ヶ月余りのかけて種山石工らと建設した。
水が不要の時は、橋の中央の両側から放水する。しぶきをあげて落花する様はまことに壮観。熊本県のさまざまなガイドブックに写真が掲載されている。
橋のすぐ近くに、資金を調達し、技術者を集め、水路の渡河事業を推進した布田安之助の像がある。傍らには遺訓「勤勉・勤労・自治」を刻んだ石碑がある。
ちなみに、江戸時代から昭和にかけられた石造アーチで現存するものは約600橋。多くは九州に分布し、特に熊本県中央部から東部にかけてが多い。
潅漑用水路を通す石造アーチ橋の傑作といわれる通潤橋は、人も通行できる潅漑用水の通水管を渡すために建設された。
――― この場所に立って、通潤橋を眺めると人間の自然への共生的な働きかけがいかに心地よい景観を創り出すかがわかる。土木遺産の美しさは、構造物単品の美しさはもちろんあるが、それとともに周囲との一体性のバランスの中にある。自然の営みである五老ヶ滝川の流れを越えて、人間の英知によって水路を通す通潤橋、そして段々に重なる棚田と周囲の森から、人間の自然に対する働きかけの積み重ねが創り出す美しさを実感できる(『日本と世界の土木遺産』著者・五十畑弘)。
八勢(やせ)眼鏡橋
1855安政2年、御船の豪商・林田能寛が私財を投じて完成させた。
種山石工の卯助、甚平の手になる。長さ62m・幅4.3m・径間18.2m。
この橋に直交する形で、長さ2.2mの水路橋もあり、重厚な趣がある。橋につながる石畳の道も残り、古い街道の面影をのこす。
楠浦の眼鏡橋 県重要文化財
1878明治11年、楠浦の庄屋・宗方堅固の発起により、楠浦と南の宮地を結ぶため、方原(ほうばる)川に架けられた。工事は下浦村の石工。 長さ26m・幅3m。
参考: 『熊本県の歴史散歩』2010山川出版社 / 図説『日本と世界の土木遺産』五十畑弘2017秀和システム) / ふるさとの文化遺産『郷土資料事典』熊本県1998人文社 / 『熊本県の歴史』1999山川出版社 / 『日本の名橋』2013廣済堂出版
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