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2018年9月 8日 (土)

アラビアンナイト、海軍兵学校教官、永峰秀樹 (山梨県)

 台風21号の爪痕がまだ生々しいのに、今度は北海道で震度7の大地震発生。科学技術も自然災害から身を守るには未だ。大きすぎる自然エネルギーに対抗できない。こんな時にのんきな話は申し訳ないが、ふだんは自然は安らぎになる。これから秋本番、ゆっくり月を眺め日が少しでもはやくきますように。どうかこれ以上酷いことが起きませんように。

   月見れば千々に物こそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど (大江千里)

 白楽天(白居易)の漢詩の翻案というこの和歌、意味は「秋というものは、わが身ばかりの秋ではなくて、だれにも同じようにおとずれて来るものであるが、月をながめていると、みょうに心細く悲しくなってくるよ」(『鑑賞・百人一首新講』平井孝一1958博文堂)。
 ところで、白楽天の月も、大江の月も、まん丸満月より少し欠けているかもしれない。日本の景色には十五夜より十三夜のほうが風情がある。三日月ならもっと余韻がのこるかも。でも、見渡す限り広い砂漠で空を見あげたときは、きっと輝く満月こそ美しい。
 アラビアンナイトの世界では、美しさを讃えるの輝く満月がたびたび登場する。
    第十七夜 ――― 公子(若君)はまことに、皎々(こうこう)と大空に麗しさにみちて輝きわたる満月かのごとく、豊かな美貌、なよやかな姿態で、まるで砂糖の塊りのように甘美に・・・・・・(『アラビアン・ナイト』前島信次・訳1987東洋文庫)

 アラビアンナイトは説話の宝庫。子ども向け「アラジンと魔法のランプ」「空飛ぶ絨毯」などおもしろい。でも、元々のアラビアンナイトは、それらとは一味違う話がたくさんある。 艶っぽいシーン、善良な者がひどい目に遭って悪人が栄えるという現実的な物語に驚かされたりする。それは、昔の中東世界をロマンチックに想像し、よくあるエキゾチックな挿絵のイメージと違うからのようだ。どうも、価値観が違うようだ。

 文明のはざまに生まれた物語と副題の『アラビアンナイト』(西尾哲夫2007岩波新書)を読んで、アラビアンナイトの誕生から今に至る物語の変遷、歴史を教えられた。
 前嶋信次訳・東洋文庫版を読んでおもしろかったが、他のテキストを訳した「アラビアンナイト」を読みたくなった。ところで岩波新書にでていた、『開巻驚奇暴夜物語』を翻訳した永峰秀樹という人物が気になった。その永峰が沼津兵学校出身ということでもっと知りたくなりみてみた。

 なお、同書にアメリカ人のフェアバンクス(1883~1939)が制作した映画『バクダッドの盗賊』に、日本人俳優、*上山草人がモンゴルの王子役で出演しているとあり、以前、彼をとりあげたのを思い出した。
   けやきのブログⅡ<2016.2.13 “明治・大正・昭和期の映画俳優、上山草人(宮城県)”
  

         永峰 秀樹

 1848嘉永1年6月1日、甲斐国北巨摩郡浅尾新田(山梨県北巨摩郡明野村)、蘭方医小野通仙・とわの末子としてに生まれる。旧名矯四郎。3人の兄も蘭方医。
   少年時代は甲府の学問所・徽典館で漢籍を学ぶ。
 1867慶応3年、恩師、平山省斎(敬忠)に仕え、省斎に従い京都に遊学、剣術のかたわら新撰組にもあったようだ。次いで土佐から長崎で英語を学び江戸にでた。武士となって外国に行きたいと御家人・永峰家の養子(名義上の後嗣)になり、幕臣となる。

 1868明治元年、*撒兵隊士として官軍と抗戦した。
     *撒兵:さっぺい。幕府は第二次長州征伐に際し、軍政改編をおこない、持小筒組(砲兵)を改め撒兵と称し、撒兵奉行をおき統括した。

 1869明治2年、沼津兵学校・資業生に永峰秀樹ら20名合格。2期生。
     沼津兵学校:(開校時は徳川兵学校)旧徳川将軍家を藩主とする静岡藩が創設。陸軍士官養成のための兵学校。先進的な教育は、明治の近代教育の出発点となり多くの人材を輩出した。
 ちなみに、兵学校には小学校が併設され生徒に服部綾雄がいる。服部は拙著『明治の一郎 山東直砥』主人公がキリスト教徒に帰依する道をつけた一人である。

 1871明治4年、廃藩置県。廃藩により沼津兵学校は設立した静岡藩を失い、兵部省の管轄となった。永峰は資業生3名で、勝海舟に直訴して上京し兵学校を退校、海軍兵学校に入学した。ところが、数学教師として迎えられ教官となった。海軍兵学校が江田島に移された後も、明治35年まで勤続する。
 ここで英米人教師との交友し英学に専念し、本格的英語教師として30年間、草創期の海軍士官の養成につとめた。かたわら啓蒙的な翻訳を始め、数学、経済学、物理学など多方面にわたって欧米の文化を紹介した。
 島国日本の目を西欧の文明に開かせようと、豊富な漢語を駆使して彼独自の文体をつくりつつ翻訳者として開化期の明治20年代まで西欧文明移入の第一線に立ったのである。

 1874明治7年12月、『支那事情』 『富国論』を出版。
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 1875明治8年、初抄訳『開巻驚奇 暴夜物語』(かいかんきょうき あらびやものがたり)日本最初のアラビアンナイト翻訳書を刊行。同書ほか永峰の著作は国会図書館デジタルコレクションで読める。

 この永峰訳アラビアンナイト登場後、ほぼ百年にして日本人読者は、専門知識に裏打ちされたアラビア語原典による前嶋信次訳アラビアンナイトで全貌を知ることができた
 ・・・・・・日本語で読めるアラビアンナイト本は近代ヨーロッパが完成させたもので・・・・・・ アラビアンナイトは、フランス語や英語に訳されたヨーロッパ経由のアラビアンナイトの翻訳を私たちは読んでいる。物語に対する見方や考え方がヨーロッパ中心になっている(西尾哲夫)。

 

 1875明治8年~11年、イギリス、J.S.ミル(弥児)『代議政体』
     同年、『物理問答』4冊、甲府書林・内藤伝右衛門出版。チェストルフィールド『智氏家訓』種玉堂

 1876明治9年、『経済小学 家政要旨』ハスケル著・永峰秀樹訳。翻訳人住所:静岡県士族。東京芝愛宕町三丁目一番地寄留。

 1877明治10年、フランスの歴史家ギゾー著『欧羅巴(ヨーロッパ)文明史』(全14巻)アメリカ・ヘンリー訳・永峰秀樹再訳・奎章閣
 1878明治11年、『筆算教授書』
 1879明治12年9月、『官民 議場必携』米国ロベルト氏原案、永峰秀樹訳
 1880明治13年、『官民議場必携』
 1881明治14年1月、『訓訳華英字典』竹雲書屋 
 1882明治15年7月、英国・日刻氏『地文学初歩』(ちもんがく。自然地理学)
   『博物小学』動物・植物・鉱物学之部 『博物小学字解』
 1902明治35年、海軍兵学校を退官。
   ?年、 明治末期から、四両会(しりょうかい)という同窓会をつくり大正期まで活動した。会名は、資業生が毎月4両ずつの学資を支給されていたことを記念したもの。

   ―――  退官後は書斎人としてフレノロジー(「性相学)の研 究を通して人生の探求に專念する一方、西欧文明の受容のあり方などにつき明治日本人を啓蒙し、今日の平和主義、民主主義の世界の姿を予見した。保坂によれば、永峯は沼津兵学校でバーレーの『万国歴史』、 グッドリッチの『英国史』を読み、海軍立国でなければ日本は欧州入の奴隷となるだろうという気持ちに駆りたてられている。
 また、 世界のことを知らせることが、日本人の島国的独尊心をくじくことになり、一般人民の教化によいと考えて翻訳を行っている。こうした翻訳に対する永峯の使命感は『家政要旨』においても受けとめられる。
 また訳文には漢文の素地が生きており、リズムのある歯切れのよい文体となっている(「永峰秀樹抄訳『経済小学 家政要旨』とその原点との比較考察」谷口彩子1996日本家政学会)。

 1904明治37年3月、『人と日本人』東海堂
 1927昭和2年12月3日、東京赤坂の自宅で死去。享年80。

    参照: 『旧幕臣の明治維新』沼津兵学校とその群像(樋口正彦2005吉川弘文館) 同書に永峰の肖像写真 / 『日本史辞典』1908角川書店

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