明治・大正の自由民権家、相沢寧堅(福島県浪江町)
9月1日、防災の日・関東大震災記念日。1923大正12年9月1日、関東全域・静岡・山梨にわたり大震災があった。9歳だった母は裸足で飛び出し庭の松の木に掴まったが、揺れが物凄くほんとうに怖かったと話してくれた。それとともに、震災後の流言飛語が恐ろしかったとも。そこに人災が加わりひどい事件が起こったから、子ども心に空恐ろしさが刻まれたようだ。そうならないため、災害も人災にも備えるように、防災記念日があると思う。
記念日といえば、すでに名のあるものを維持し伝えていくイメージだが、県民の日のようにみんなで盛り上げようというのもある。 ――― 県では7月から9月までの3カ月間、「福島県民の日(8月21日)」を記念するとともに“うつくしま、ふくしま”県民運動を盛り上げていくため、サマーキャンペーンを展開しています(2002年)
平成14年の「ふくしま県民だより」で東日本大震災前であるが、2018平成最後の今年も“うつくしま、ふくしま”を合い言葉に観光客を迎えているでしょう。
ちなみに、若松県・旧福島県・磐前県が並んだ福島県の図も同じ県民だよりから。
磐前県 (いわさきけん)
明治初期、日本中たくさんの県があったなかに磐前県があった。磐前県は初見なので、『福島県民百科』をみてみた。すると、3県分立時代に発行されたという「磐前新聞」が載っていた。
創刊は1873明治6年、「読売新聞」の1年前、「東京日日新聞」(毎日新聞)の1年後である。その「磐前新聞」は、石城郡上遠野村産の磐城紙を用いた小冊子型で11号で終わっているが、編集は進歩的であった。
県の統廃合があり磐前県が存在したのは短い期間だが、相沢寧堅がまだ若く自由民権運動に入る前、24歳で磐前県の役人(属卒)をつとめた。
相沢 寧堅 (あいざわ やすかた/ねいけん)
1849嘉永2年7月15日、陸奥国標葉(しねは)郡高瀬村(福島県双葉郡浪江町)の愛沢為規の長男として生まれる。家は相馬中村藩の下級武士で十人扶持。号は葵山。
1868慶応4年、*東北戊辰戦争に従軍し*仙台追討の軍に加わる。
“大熊町の幕末明治、中村藩領大野村・熊町村(福島県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/03/post-c261.html
1871明治4年、廃藩置県。
1873明治6年、磐前県属卒。
属: 明治初年、太政官制における「寮」の職員。頭・助・允・属の4等官。
“自由党員たびたび保釈、安瀬敬蔵(福島県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/04/post-cd63.html
1874明治7年、小学校教員となる。
1878明治11年、自由民権結社*北辰社に加入。
“民権派教師・若生精一郎とその兄・若生文十郎(宮城県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/03/post-4044.html
1879明治12年、県会議員に当選。河野広中らと交わる。
1881明治14年、自由党福島支部の結成に尽力する。
1882明治15年、福島事件。自由党員・農民弾圧事件。
2月からの福島県令・三島通庸の圧政に反対し、12月1日無名館事件にさいして県会議長・河野広中らとともに逮捕される。政府転覆の内乱陰謀があったとして、軽禁獄6年に処せられる。
“田母野秀顕とその妻 (福島県三春)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/03/post-2829.html
1889明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布により大赦で出獄。
1892明治25年、第二回衆議院議員選挙。
愛沢は福島県第五区(菊多ほか6郡)自由党から出馬し初当選。第三区は河野広中(自由党)が再選、第四区は東海散士柴四朗(無所属)が初当選している。
――― 福島自由党の結成に関わり・・・・・・その後衆議院議員となる愛沢寧堅(1849-1929高瀬村出身)が有名です。愛沢はまた、相馬事件と呼ばれるお家騒動に端を発した政治問題で、当地方の汚名挽回に奔走したことでも知られています。日本の国家が明治という時代をかけて速成した民主主義は、実際には名ばかりのものでした。自由民権運動を通して真のデモクラシーを実現していく過程においては、浪江の祖先たちも含む多く人々が血と汗を流したことを、私たちは忘れてはならないでしょう(浪江町HP http://www.town.namie.fukushima.jp/soshiki/2/namie-history-1.html)。
ちなみに、吏党と民党の区別があった。民党は自由・改進・自由倶楽部・巴倶楽部・独立倶楽部の5団体。対する吏党(政府支持政党)の評判は、
――― 知事郡長の訓令、実業家の金力、御用新聞の附録配布、郡吏・警官の権力・金銭・賄賂・饗応、壮士・乱暴・殺傷・狼藉、告発・讒誣・・・・・・
――― 板垣総理伯が民党応援のために福島に出張せし時に於いては、人民は皆歓呼して迎へたれども、21日郡山に開ける演説会も、翌日須賀川に開ける演説会も、石川郡、棚倉亀文館における談話会も悉く皆解散となりき・・・・・・
――― 民党の肩をもてる郡長警吏は、すべて免職となりぬ・・・・・・ 福島県警部長は、故三島県令の股肱にして、なかなかの豪の者なるが、ある人に向かって・・・・・・総選挙に一人も民党の候補者を撰ばしめざるべしと(民友社発行『選挙実録』1892)
この選挙運動中に板垣退助が民党応援のために福島にき、歓呼で迎えられたが演説会も談話会もみな解散させられた。七十余名の巡査が各地から集められ吏党の選挙に尽力、政府は前回選挙で民党が勝利したため今回は激しい選挙干渉を行ったのである。愛沢寧堅はこのような時代に民党の自由党から立候補、当選したのである。これ以後、5回当選。
なお、板垣退助の地元高知県下では保安条例が二十日間適用され、福岡県ではピストルを発砲し逆に斬りつけられる騒ぎがあった。
いっぽう政府の厳しい干渉にあった民党側も壮士を鉄砲や仕込杖などで武装させて対抗、各地で死傷者がでた。この選挙の死者は二十五人、負傷者は三百八十八人というすさまじさであった。
結果は、合計民党163対吏党137。激しい選挙干渉にもかかわらず民党の勝利となったのである。
1894明治27年3月、第3回総選挙。自由党から出馬、再選される。
7月、日清戦争開戦。翌28年4月、下関条約を締結。
1898明治31年、国民外交同盟会の運動に参加。自由党を脱党、憲政本党に所属する。
1903明治36年3月1日、第8回総選挙。憲政本党(党首は大隈重信)から出馬、当選。
8月9日、東京神田・錦輝館において対露同志会、満州のロシア撤兵要求を決議。出席者は神鞭知常・頭山満・柴四朗・相沢寧堅・髙野孟矩・山田猪太郎ほか各代議士、その他各派の院外有志、近県より上京した同志約500余名にて決議、気勢をあげる(時事新報36.8.10)
12月5日、第19議会招集。衆議院議長・河野広中は勅語奉答文で政府を弾劾し政治問題となる。その奉答文の起草者は愛沢といわれる。
1904明治37年2月、日露戦争開戦。翌年、アメリカの斡旋で講話が成立。
1914大正3年~18大正7年、第一次世界大戦。
列強の植民地拡大をめぐる世界戦争。日本も日英同盟を理由に参戦。
1915大正4年、(第二次大隈内閣) 中国での利権拡大を図り、中国政府に対華21ヵ条要求を提出。中国では排日運動がおこった。
1929昭和4年3月4日、81歳で死去。
参考: 『福島県民百科』1980福島民友新聞社 / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館
/ 『日本史辞典』1908角川書店
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