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2018年9月29日 (土)

白虎隊出身の裁判官、西川鉄次郎 (福島県・東京)

 JR秋葉原駅のホームで電車を待っていると、横にいる女性がスマホの写真を見ながら、聞きなれない言葉で話し続けていた。どうやら、アジアのどこかにいる家族と会話しているようで楽しそう。便利になって世界は狭くなった。20年くらい前、シンガポールの地下鉄に乗ったとき、向かいの席に様々な人種が居並びおもしろいと思った。このような光景、今や日本でもそう珍しくない。また、人種に限らず日本人の気質やみ、生き方は多様になった。
 人それぞれでいいと思うが、生き方が気に入らないといって攻撃する向きがある。驚くことに、その非常識な側に立って弱い立場の人を振り落とすのに手を貸した雑誌があった。それには、さすがに多くの反対意見がでてその雑誌は休刊となった。この残念な騒動に由来してか、以前書いた“新潮社創立・佐藤義亮(秋田県)”にアクセスがあった。  https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/01/post-b878.html

 さて、江戸から明治へと世の中が変化した時代は、生き方どうのこうの所か、世に出る道を見つけるのが難しい。でも、生きなければならない。戊辰戦争に敗れ賊軍と見下げられようとも、道をみつけなければならない。それにはまず学問を身につけたい。特に会津藩は教育熱心でその傾向が強い。そして、学問知識は時代が変わっても力になる。
 もと白虎隊士、西川鉄次郎は単身で徳川家の領地となった静岡藩の沼津に赴き、兵学校の附属小学校に入学。知識を深め道を切り開いていくのである。

               西川 鉄次郎Photo
 1854嘉永6年12月24日、父は会津藩士、御書簡所物書勤(禄高6石5斗2人扶持)西川俊治。生地は会津若松、または江戸小石川とも
 1868慶応4年/明治元年、戊辰戦争。鉄次郎は白虎寄合二番隊士として越後を転戦。敗戦後、新潟の高田に幽閉された。
   *白虎隊: 16、7歳の子弟で編制。士中白虎隊(上級士族の子弟)・寄合白虎隊(中級士族の子弟)・足軽白虎隊(下級士族の子弟)。
   白虎隊といえば飯盛山で自刃した少年隊士を思うが、生きて明治に活躍した人物は少なくない。ちなみに、西南戦争で活躍した山川浩(物理学者・教育家、山川健次郎の兄)は、士中白虎隊に属していた。


 1870明治3年、西川俊治一家は東京で謹慎生活を送ったのち斗南に移住したが、16歳の鉄次郎は単身、沼津に向かう。
 徳川家が移封された静岡藩の*沼津兵学校附属小学校に留学し、*西周らの教えを受けた。同じ留学生でも学資が豊かで、高価な西洋紙を惜しげもなく使う生徒がいたが、鉄次郎は「衣食の料にも足らず、やむを得ず教授方の家に寄食する」苦学生だった。
 小学校といっても外国語や数学語など今の中高生が学ぶ程度と思われる。また当時としては画期的な体操の授業があった。

   *西周: 津和野藩士。洋学者。オランダへ留学し帰国後、兵部省、陸軍省に出仕。軍人勅諭を起草。明六社員。「哲学」の訳語をつくったことでも知られる。
   *沼津兵学校: “アラビアンナイト、海軍兵学校教官、永峰秀樹(山梨県)”
  https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/09/post-2939.html

   余談: のちの陸軍大将・柴五郎も兄の太一郎四朗らと東京で謹慎生活を送っていたが、脱走して沼津の洋学者・林欽次(正十郎)教えを受けようとしたができなかった。会津藩の子弟は、絶望の淵にあっても教育にかすかな希望を見いだしていたのである。

 1871明治4年、上京、大学南校(江戸時代の蕃書取調所)に入学。なお、大学南校と大学東校(もとの医学校)とで東京帝国大学となる。
 1878明治11年、東京帝国大学法学部を首席で卒業。
     外務省に入り、大使館書記生として英国で学ぶ。
 1879明治12年、ロンドン公使館書記官として赴任。間もなく内務省に転じる。
 1881明治14年、帰国後、内務省に入る。
   ?年、    文部省に。
 1885明治18年、文部省書記官ながら、7月、増島六一郎(初代校長)、菊地武夫穂積陳重ら18人の少壮法律家と、東京府神田区神田錦町に英吉利法律学校中央大学の前身)を創設。
     西洋化がすすみ、法律関係の高い学識が求められるようになっていた。創立者たちは、そのために必要な講師の充実、書籍の刊行、図書館の開設をうたい、法律家の育成をめざした。 鉄次郎は保険法を講義した。

 1886明治19年、司法省に転じて判事となる。
 1888明治21年、第二期広島重罪裁判長(控訴院評定官)。
      控訴院: 明治8年創設された上等裁判所が明治14年、控訴裁判所に、19年控訴院になった。第2審の合議裁判所で、東京・大阪・名古屋・広島・長崎(のち福岡)・仙台・函館(のち札幌)に設置。

 1889明治22年、
   ?年、水戸地方裁判所長
   ?年、横浜地方裁判所長
   ?年、函館控訴院長
 1895明治28年、東京始審裁判所判事として裁判官に転官。
 1898明治31年、大審院(最高裁判所)判事に就任。
     ~1902明治35年の間、旧憲法下の最高裁判所である大審院の判事を務める。
 1899明治32年、『大審院判決摘要類纂』(博文館)発行。校閲を行う。
 1906明治39年、長崎控訴院長に就任。
 1913大正2年、退官。
 1932昭和7年6月1日、神奈川県小田原市にて死去。 享年80。
     会津会会員。墓所は青山霊園。

   参考: www.wikiwand.com/ja/中央大学の人物一覧 / 『旧幕臣の明治維新』2005樋口雄彦(写真も) / 『明治大正人物事典』2011日外アソシエーツ / 『近現代史用語辞典』安岡昭男編1992新人物往来社

 

        ********** **********Photo_3

 増補
 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』 
   
人名索引つき
           10月発売     定価(1900円+税)

   戊辰150周年にあたり再刊いたしました。
   初版になかった 人名索引を加えました。
   
 黒船来航から昭和20年の終戦まで、およそ100年。日本の近代に活躍した会津の兄弟と多くの同時代人を描いた物語。宜しくお願いします。
つぎは登場人物800人の名前。

 “居るも居たり800人、愛沢寧堅からワルデルゼー”
 https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2010/05/post-66bc.html

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コメント

“秋田藩の戊辰戦争とその前後(秋田県)”
 https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/02/post-e571.html
ご質問ありがとうございます。申し訳ないですが分かりません。
もし秋田県にお住まいでしたら、県史・郷土史・地方史などでお確かめいただくか、資料館などにお問い合わせになってみてはいかがでしょう。
 そして、おわかりになりましたら、教えていただけるとありがたいです。その時は、本名でなくてよいので、何か適当なお名前でお願いします。

投稿: 中井けやき | 2018年9月30日 (日) 19時44分

こんばんわ♪
質問です。
2/3の記事にある下記の場所は秋田県立体育館あたりになりますか??
お分かりでしたら教えてください。

「盟約履行を求める仙台藩使者の宿舎を秋田藩の勤王派が襲って殺害。」

投稿: 73 | 2018年9月29日 (土) 18時37分

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