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2018年10月13日 (土)

咸臨丸・沼津兵学校・水路局など有為の人材、伴鉄太郎

 少し前の、明治期に「アラビアンナイト」を翻訳した沼津兵学校生徒だった人物のことを書いたが、今回はそのときの教官の一人、伴鉄太郎についてみてみる。
    “アラビアンナイト、海軍兵学校教官、永峰秀樹(山梨県)”
    
 拙著『明治の一郎 山東直砥』に<伴鉄太郎塾でABC>というくだりがある。攘夷を口にする山東一郎に松本良順は、西欧の海軍が強大なこと、武器も精良であると教えた。
 ―――「夷を攘わんには、先ず、夷を知ることに勉むべし」外国人と戦うには、まず外国人を知らなければならない・・・・・・ 航海術を修得するには、訓練と同時にオランダ語を学び、西洋の算学を学び蘭書を読めるようにしなければならない。
 一郎は書き写すなど修得に勉めたもののすぐに音を上げた。 「その苦心言うべからず。且つ、授業の方法も整わず、学習甚だ困難にして容易に学び得べからず。されば予が如き大和魂を以て充たされたるものには蛮夷の蟹行文(横文字)を解すること甚だ適せず」と、捨て鉢になり辞めてしまった。
 すると、英学を勧めてくれる者があった。さっそく英語のABC27文字を覚えた。しかし文章を作ることもできず意思も通じなかったから、こっちも中止してしまった。

        伴 鉄太郎

 1825文政2年、先手与力、桜井家に生まれ、御徒をつとめる伴家の養子に入る。
 1851嘉永4年、*御徒となる。
     、*御徒: 徒士組(かちぐみ。江戸幕府の職名。将軍出行のとき、先駆して沿道警備にあたる。平常は玄関・中の口に勤務。若年寄の支配下)。

 1855安政2年、幕府が洋式海軍創設のため長崎に長崎海軍伝習所を開設、伝習生は幕臣や諸藩士から選ばれオランダ海軍士官から海軍の知識・技術を習得した。1期生の艦長候補者の勝麟太郎(海舟)はよく知られる。
 1856安政3年、箱館奉行支配調役並に任ぜられ、第2期伝習生募集に応じて長崎へ赴く。同期は榎本釜次郎・肥田浜五郎ら12人で全員幕臣であった。
 1857安政5年、卒業。オランダで製造された咸臨丸を運転して、江戸に帰り築地の軍管繰練所・教授となる。
 1858安政6年、軍艦繰練所・教授方出役となる。

 1860万延元年、通商条約批准の使節として外国奉行・新見正興らのアメリカ派遣が決まる。長崎伝習所を卒業し選抜された咸臨丸乗組員は、日本人乗組員だけで太平洋を横断したいと申し出たが、まだ技術が未熟だとして危険視された。そこで、使節を迎えに来たアメリカ艦ポーハタン号の護衛という名目で咸臨丸は遠洋航海をすることになった。
   同年1月、咸臨丸は浦賀を出航。乗組員は軍艦奉行・木村摂津守、軍監頭取・勝麟太郎(海舟)、軍監繰練所教授・伴鉄太郎、通訳・中浜万次郎ら日本人ばかり90名乗船、遠洋航海の実力を験すことになった。
 士官一同、奮って事にあたり、難なく太平洋を横断、二月下旬サンフランシスコに到着。一ヶ月余り滞在して帰路についた。咸臨丸は途中ハワイに寄港、五月、品川に帰着したのである。帰国後、軍艦繰練所教授方頭取にあげられる。従来の禄高・百俵のほかに年々の手当、五人扶持の恩賞をうける。
   11月2日、小十人組仰付られ、軍艦繰練所教授方出役。

 1861文久元年、両番上席軍艦頭取に進む。   
 1862文久2年、軍艦頭取。同僚には荒井郁之助・小野友五郎・肥田浜五郎らがいた。
    “咸臨丸航海長・小野友五郎 (茨城県笠間)”
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/04/post-80ca.html

   *朝陽丸(エド号)艦長を命じられ、小笠原島開拓に参加。幕府がオランダに建造を依頼していたコルベット艦エド号。咸臨丸とまったくの同型姉妹艦。

 1867慶応3年、軍艦頭となる。Photo

 1868明治維新、徳川家に従い、沼津兵学校一等教授となる。
    兵学校の陣容については「人材集まり評判」であった。図は『旧幕臣の明治維新』(樋口雄彦・吉川弘文館)より。
 1871明治4年、沼津兵学校は兵部省に移管され、次いで東京に移転する。伴は海軍省に出仕し、正六位に叙せられる。少佐・水路権助。水路寮製図課長、水路局副長をつとめる。
 1872明治5年、水路局長・柳楢悦の副官をつとめた。また、勝海舟、木村介舟とともに『海軍歴史』の編纂に携わる。
 1874明治7年、東京の飯倉に海軍観象台が完成。柳楢悦は水路業務の一環として天文・気象の必要性を力説していた(『長崎海軍伝習所』藤井哲博・中公新書)。
    “釜石港の水深図・柳楢悦(やなぎならよし)”
   https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/02/post-ccf2.html
    “続・柳楢悦「長崎海軍伝習所」「東京数学会社」”
   https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/02/post-9a2d.html

 1877明治10年、日本最初の数学の学術団体、東京数学会社に沼津兵学校出身者らと参加。数学会社は明治前期の数学教育会で大きな勢力を占めた。
 1889明治22年、大日本帝国憲法発布記念章うける。
 1886明治?年、海軍省書記官。

 1902明治35年8月7日、死去。海軍大佐。77歳。
     ――― 惜しむらくは有為の材を抱きながら一海軍大佐にて長逝した。氏は頭脳明晰にして学問の造詣深く、海軍元帥伯爵・伊東祐亨の如き、幕府海軍操練所に入りし時代、氏の薫陶を受けた一人である(『沼津兵学校とその人材』1939大野虎雄)。

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   戊辰150周年にあたり再刊。初版になかった人名索引を加えました。
 
 

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