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2018年10月 6日 (土)

火山研究・地理学研究、田中館秀三(岩手県)

 猛暑、北海道胆振地震、台風24号が列島縦断、災害続きの日本に明るいニュース <新たながん治療に貢献、本庶佑氏 ノーベル賞> 「がん免役療法」を実現、ノーベル医学生理学賞の本庶佑教授が連日報道され、私たちは拍手を惜しまない。功績の内容・説明をきいても筆者の脳みそでは理解しきれない。でも、長く地道な研究が賞されたのは分かる。
 難しい学問のほかにも世の中は解らないことだらけ。無知なおばさんには科学が進歩しているのに、なぜ、地震や火山噴火の予知ができないか分からない。しかし、様々な分野で研究を志して地道に研究を続けている学者がいて、私たちはその恩恵を受ける。せめてその道の達人の生涯をと、『日本地理学人物辞典』近代編(2013原書房)を開くと枚挙にいとまがない。そこから田中館秀三(たなかだて ひでぞう)を選んだ。
 田中館教授が『思い出の昭南博物館』に登場していたからである。ずいぶん前、シンガポール観光にいったとき博物館を訪れたが休館日、残念だった。

       田中館 秀三    (たなかだて しゅうぞう)

 1884明治17年、岩手県二戸郡福岡町(二戸市)の旧家、下斗米家に生まれる。
 1894明治27年、日清戦争。
 1897明治31年、岩手県立盛岡中学校(のち盛岡第一高等学校)に入学。卒業。
   ?年、   第三高等学校(京都大学)入学
 1905明治37年、日露戦争はじまる。
     東京帝国大学理科大学(のち東大理学部)地質学科に入学。
     小藤文次郎・神保小虎・横山又次郎らの指導を受ける。
     在学中にカラフトを旅行し、卒業論文「樺太の硫化鉄鉱の研究」を提出
 1908明治41年、卒業。東北帝国大学(のち北海道大学)講師につく。
 1909明治42年、水産学科教授兼農科大学助教授。地質学・岩石学・海洋学を講義。


 1910明治43年春、27歳。支笏湖畔の樽前(たるまい)山が噴火し、山頂に火山ドームが突如形成され、田中館が火山研究へむかう契機となる。

    この年、文部省在外研究員としてドイツ・イギリスに出張。地理学・海洋学を5年10ヶ月研究。この間、ベルリン大学のペンク教授のもとで地理学・水文(すいもん)学を研修。その後、イギリスおよびイタリアで学ぶ。南北アメリカ大陸を旅行。
 1913大正2年、ナポリ大学の助手、講師として自然地理学の講義をおこなう。
    同年、ローマの国際地理学会議で「有珠山の爆発」を講演。大正4年にかけて、ベスビオス火山の研究に従事。日本における火山活動、ヨーロッパのしれと比較に関する論文を『ベルリン地理学会誌』などに発表。
 1915大正4年、帰国。

 1916大正5年、33歳。北海道帝国大学、助教授兼農学部水産学部講師となり、海洋学・湖沼学を講義。
   北海道の火山研究に着手し、樽前山・有珠山・岩雄登(いわおぬぶり)などの形態・活動型式・噴火機構を報告する。火山湖の調査を行う。 このころ、*田中館愛橘の養嗣子となり、田中館と改姓。
     “文化勲章と断層発見物理学者・ローマ字論者、田中館愛橘(岩手県)”   

 1919大正8年ごろ、中国山東省の地質と鉱物資源の調査におもむく。
 1922大正11年、北海道庁の嘱託で、多数の火山湖の形態・湖水・生物を調査。『北海道火山湖研究概報』にまとめた。そのほか、「海洋」「湖沼学」などを寄稿。
 1923大正12年、東北帝国大学法文学部講師に就任。経済地理・殖民地理を講義。
 1926大正15年、北海道十勝岳・樽前山を3年間調査する。
 1929昭和4年、ジャワで太平洋学術会議で講演。
    また、日本の火山噴火記録(1914~1936)を英文で報告。
 1933昭和8年、三陸海岸が大津波の被害にあう田中館はすぐに津波来襲調査をはじめ、山口弥一郎に以後の研究を托す。
   “『津浪と村』地理学・民族学、山口弥一郎 (福島県)”
   https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/01/post-d5d1.html

 

 1934昭和9年、東北、冷害による大凶作。田中館は、昭和16年まで凶作に関して東北地方の人口地理学的研究をする。この間、北千島の竹富島(アライト島)、鹿児島県の硫黄島・口之永良部島を調査し報告する。

 1941昭和16年、対米英開戦直前。海南島・仏領インドシナ・シンガポールへ出張。燐灰石の鉱床など調査。
 1942昭和17年、南方派遣軍の事務嘱託となり、命令を受けた資源調査とは別に、昭南島(シンガポール)博物館を拠点として、「ジャワ、スマトラ、マライ等に散在する文化機関の接収、育成、創設に尽力。戦闘によって文化施設が破壊され、文化財が散逸するのを防いだ。


 ――― 昭和17年2月18日水曜日・・・・・・(シンガポール)市庁舎の執務室で日本人に紹介された。長い鼻、顔に不似合いな大きな眼鏡、ふさふさしているが手入れのゆきとどいてない髪、とても端麗とは言えない目鼻立ち。くしゃくしゃの洋服と、みすぼらしいフェルト帽・・・・・・サイゴンから到着したばかりの彼は、荷物と言えば、小さな古ぼけたスーツケース一つ
 彼は英語で自己紹介をした。英国ケンブリッジ大学キャベンデイッシュ研究所で共同研究をしたこと、ロンドン、オックスフォード、エディンバラの学会で名の知られている・・・・・・世界中を広く旅したこと、英語、フランス語、オランダ語、ドイツ語、イタリア語に堪能である・・・・・・ シンガポールにやってきたのは、天皇陛下の名代としてラフッルズ博物館と他の科学教育機関の実態調査をするためである

 ――― 田中館の話は半分は作り話であったが、信頼と尊敬の気持ちがこみあげ、そして、それはつづく出来事を通して強まりこそしたものの、けっして弱まることはなかった。
 教授はマラヤに来た本当の目的は鉱物を採取し、地質を調査すること・・・・・・公武と地質の主な標本は、すでに掠奪にあい、めちゃめちゃになっていた。教授はひどく落胆した。
 このあと、田中館が山下奉文将軍と会談するなどして博物館を守るため活躍するが、続きはE・J・Hコーナー著 石井美樹子訳『思い出の昭南博物館』(占領下シンガポールと徳川公1982中公新書)をどうぞ。

 1943昭和18年、帰国。立命館大学教授として5ヶ月間、講義。
 1945昭和20年、敗戦。10月、東北帝国大学教授に就任、理学部地理学講座を担任。
 1946昭和21年、退官。連合軍総司令部GHQの経済科学局嘱託となり、日本の農業と人口との関係を研究。食糧自給が困難であり、殖民すべき場所が国外に必要であると訴えようとした。
 1948昭和23年、法政大学文学部講師。翌年、地理学科の主任教授となる。
 1951昭和26年、東京で死去。67歳。

 

 

 

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 増補
 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』 
   
人名索引つき
           10月発売     定価(1900円+税)

   戊辰150周年にあたり再刊いたしました。
   初版になかった 人名索引を加えました。
   
 黒船来航から昭和20年の終戦まで、およそ100年。日本の近代に活躍した会津の兄弟と多くの同時代人を描いた物語。宜しくお願いします。

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