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2018年10月27日 (土)

東京隅田川にかかる白鬚橋 & 関東大震災

 子どものころ隅田川の近くに住んでいた。今のスカイツリーあたり向島百花園の隣の公園でブランコに乗って遊んだ。高く漕ぐと百花園の中が見えたが、趣向をこらした庭も小学生には何の事もない。また、子どもの足ではちょっと遠いが白鬚神社しらひげじんじゃ)のお祭りにも行った。楽しいはずのお祭りだが思い出すのは妹が迷子になって慌てたことばかり。 頼りないお姉ちゃんだったかもなどと昔を思い出したのは、
<川本三郎の東京すみずみ歩き・白鬚橋」(毎日新聞2011.4.30)>新聞切りぬきが出てきたから。白鬚橋の写真をみると、すごく大きな橋だと感心したことなど思い出す。懐かしく記事を読み返していると、
震災復興橋梁」がでてきた。それで記事をとっておいたらしい。せっかくだから白鬚橋、関東大震災、当時の世相もみてみよう。
 ちなみに漢和辞典によると白鬚橋のは「あごひげ」、は「口のうえのひげ」。 

        白 鬚 橋

 隅田川の上流に架かる白髭橋は西側の台東区と荒川区の区境、東側の墨田区を結ぶアーチ橋。橋の上を明治通りが通っている。荒川区南千住三丁目/台東区橋場二丁目。東武伊勢﨑線・東向島駅北西800m。 白鬚橋の名は東岸にある「白鬚神社」(墨田区東向島)による。台東区HPに写真
 http://www.city.taito.lg.jp/index/index.html 

 昔、ここには「橋場の渡し」と「白鬚の渡し」という渡船場があった。橋場の渡しは千住大橋ができる1594文禄3年までは、隅田川を渡る中心地であった。伊勢物語で主人公(在原業平)が有名な歌を詠んだのはこの渡しとされる。
    名にし負はばいざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人はありやなしやと

 1914大正2年、渡し舟があったが、近在の人々が基金を募って資本金を作り「白鬚橋株式会社」を設立。
 1915大正3年、着工約一年で長さは130間の木橋を完成。橋には番小屋を置き、大人一人1銭の渡り賃(通行料)を取った。
 渡りきらなければ料金を払わなくてよかった。 「はなから渡る気のない、物見遊山の人も多かったよう」江戸文人趣味の庭園で知られる向島百花園を控え、このあたりは文化村だった(白鬚神社・宮司)。
 当時は渡し舟も多く走り、経営は苦しかったという。後に2銭に値上げするも間に合わず橋の維持に支障をきたすようになった。

 1923大正12年9月1日、午前11時58分、空前の大地震が関東一円を襲った
    電信・電話・無線電話も不通となり、東京は地震に次ぐ大火災で大混乱に陥った。2日、余震のおさまらぬ中で山本内閣の親任式が行われ、「地震内閣」とよばれた。
 政府は東京市、府下4郡、埼玉・千葉・神奈川県にも戒厳令を布いて警戒にあたった。
 震災の混乱は、生糸の暴騰、物資の不足、失業者の激増などとともに11月の戒厳令廃止後も続いた。朝鮮人問題のデマが拡がり多数の死者がでた。

 (大正12年)世相: 震災で東京は焦土と化したが、近郊に和洋折衷の群が形成された。
   春場所初日を前に、関脇以下の全力士、行司が参加して、養老年金引き上げなどを要求してスト、警視総監が仲介して和解、横綱大錦はマゲを切る。

 スポーツ: 第9回中等学校野球大会は3年連続を目ざす和歌山中学を、甲陽中学中学が破って優勝。

 流行: 10年に作られた野口雨情・作詞、中山晋平・作曲の「船頭小唄」は、これを主題歌とした映画が製作され大ヒット。「おれは河原の枯れすすき」が流行した。

 出版: 雑誌『文藝春秋』、『エコノミスト』、『赤旗』創刊

 翌1924大正13年8月、東洋一の甲子園野球場が完成し、はじめて第10回全国中等野球が行われ広島商業が優勝した。
            (『新聞集成大正史』第15巻1978大正出版)

 1925大正14年に東京府が買い取り、都市計画事業の一環として、また関東大震災後の震災復興事業の一環として現在の橋に架け替えられることとなった

 1926大正15年12月25日、大正天皇死去。皇太子裕仁親王が直ちに皇位につき、年号を「昭和」と改めた。
    年号の「昭和」とは、書経の「百姓昭明、万邦協和」からとったもので、「百姓」とは「国民一般」をさし「万邦」は「世界中の国々」を意味し、「国民は幸福、世界の国々は平和」との願望がこめられていた。ところが、昭和の最初の20年間の歴史は、元号の寄せた願いとはうらはらに大日本帝国は崩壊、幾多の国民が戦争のいけにえに供され、また、家を失い、肉親を奪われ、塗炭の苦しみをなめた。
 昭和元年はわずか一週間で終わり、迎えた昭和2年は金融恐慌であけた。第一次大戦後の恐慌と関東大震災の打撃から立ち上がれぬままに慢性不況が続いた。
            (『新聞集成・昭和史の証言』第6巻1990本邦書籍)

 1928 昭和3年7月、白鬚橋着工。

     余談: 2018平成30年の本年は明治150年・戊辰150周年にあたるが、白鬚橋着工の同年、秩父宮雍仁親王と子爵松平保男の姪節子との婚約発表があった。
 皇統譜に初の平民の名が載ることになったのである。
 9月、節子(勢津子)は納采の儀を終えるとはじめて郷土の会津を訪問。戊辰の戦から六十年をへて、藩主の孫の姫が大正天皇の第二皇子と結婚という日を迎え、会津の人々は晴れがましく思い喜んだ(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』)。

 1931昭和6年8月8日、白鬚橋竣工。
    橋の概要:構造形式: 下路式ブレースドリブドタイドアーチ橋
    橋長168.8m・幅員: 22.1m
 橋台は沈函、今でいうRC造のケーソン、橋脚は井筒式(RC造ウェル)、コンクリート使用量は10.933m3。現在のシステムとほとんど変わらないが、当時としては導入されたばかりの最新式の架橋技術だった。ただ、1台に2個沈設されたケーソンには1個につき23mもある72本の米松の杭が打ち込まれていて、それが時代を物語る。
 施工: 東京府。橋梁設計: 増田淳。橋桁製作: 川崎造船所。

    ―――ヒトは橋を架ける行為に昔から夢や情熱や最先鋭の意識と技術を投入してきました。社会学者ジンメルはその著述の中で「単に空間的に隔てられているだけでなく、向こうとこちらが分割されていると感じる能力が橋を生み出す。両側に分けられているという自覚が、これを結びつけようという意思になる。それは人間に固有の作業である」と述べています。さらに「ただ実用をみたすばかりでなく、直観に訴える具象として美の対象になる」とも。
        (大林組 https://www.obayashi.co.jp/thinking/detail/back008.html )

 このころ、期を画すように幾つもの大型の近代橋梁が各地で架けられたが中でも白鬚橋は、鋼橋のその伸びやかに躍動するプロポーションは傑作の一つに数えられる。
 ところで、白鬚橋からみるスカイツリーはどんな姿かな。反対にスカイツリーから白鬚橋はどう見える?

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