明治の教育者、竹崎茶堂・竹崎順子(熊本県)
<熊本城、修復工事を公開>
――― 外観工事が進んだ大天守は上層階の足場が撤去されて真新しい瓦をふいた屋根がお目見え・・・・・・ 市民の心のよりどころは着実に元の姿を取り戻しつつある(2018.10.17毎日)。
工事中の写真を見、なんとも立派な熊本城の石垣を見あげた十余を思い出した。あの石垣が崩れたなんて未だに信じられない思いだ。熊本城、石垣はもちろんだが、城内の佇まいにも感動した。どうか無事に工事が終わり、銀杏城の歴史を感じさせる佇まいに戻るよう願っている。
ところで熊本というと加藤清正をはじめとして男らしさが思い浮かぶ。しかし女子も勁草のごとく、しっかりしている。男女関係なく互いに響き合い切磋琢磨するうち確乎とした信念に基づき行動する人物になるのだろう。高群逸枝、矢島楫子、竹崎順子をみてそう思った。
“火の国の女、高群逸枝(熊本県)”
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竹崎茶堂(さどう) & 竹崎(矢島)順子
1812文化9年、竹崎茶道、肥後(熊本)に生まれる。名は政恒、通称は律次郎。
茶堂は幕末・明治前期の漢学者・教育者、横井小楠門下。
1825文政8年10月25日、順子、肥後国上益城郡杉堂村(熊本県)矢島家に生まれる。
1841天保12年、順子16歳で竹崎家に嫁ぐ。夫の竹崎茶堂は29歳。
順子は夫とともに孔子や孟子の教えを信じ、夫を助けてて開墾事業や教育事業に従事する。そして夫および兄、矢島源助を通じて横井小楠の影響を受ける。
茶堂は酒造業に失敗し、阿蘇郡布田村に移住し開墾、塾を開くこと17年。
〔布田に住みけるころ雪中に筍の生ひしに〕
古しへの稀なる孝にならへとや 雪の中より出でし竹の子
(以下、順子の和歌は『蘆花全集 第15巻』より)
1860万延元年、茶堂は玉名郡横島新地(玉名市)に移り40町歩の経営にあたる。
ここでも開明的農業を営み、夫妻で手習い女を設け子弟を教育する。
1868明治元年、茶堂は維新後、熊本藩の洋学校で*徳富蘇峰・*小崎弘道・*海老名弾正らを育成した。
“熊本の兄弟、徳富蘇峰・徳冨蘆花(熊本県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/07/post-383e.html
小崎弘道(こざきひろみち): 熊本藩士の子でキリスト教の指導者。
海老名弾正: 明治・大正期のキリスト教の指導者。熊本洋学校でジェーンズの教えを受け、同社大学に入り卒業後は各地で伝道生活を行う。思想活動にもつとめた。門下から吉野作造、*鈴木文治がでた。
“生計の困難にして不安、更にこれに劣らぬ苦痛は侮辱、鈴木文治(宮城県)”
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1870明治3年、茶堂、県庁に出仕。細川藩民部大屬として藩政改革をおこなった。
1871明治4年7月、廃藩置県。
旧藩主の藩知事は家録と華族の身分を保障されて東京へ移住。藩知事にかわって中央から知事・県令が派遣され権力が中央に集中。
1873明治6年、茶堂、県庁を辞任。
熊本郊外本山村(熊本市)に日新堂を創設、数百人の門下生には女性ともいたので、順子は料理やミシン・裁縫などを教えた。
1877明治10年、竹崎茶堂、死去。65歳。
〔なき君をともろふとて〕
なき君がおもかげ今はうつつにも 夢にもわれをはなれざりけり
さまざまにいひ残しける言の葉を 猶思出るけふにもあるかな
夫の死後、順子は肉親の相次ぐ不幸に出会い、現世では孔孟の教えでは救えないものがあることを知る。そして、妹の徳富久子(徳富蘇峰・蘆花兄弟の母)や姪の海老名みや子(海老名弾正の妻)の導きでキリスト教に接する。
1887明治20年、海老名弾正夫妻が熊本に来住。順子はキリスト教に入信。62歳。
順子は妹・徳富久子がつくった熊本女学会(のちの熊本英学校付属熊本女学校)の舎監になる。
学舎は安定せずたびたび移転を余儀なくされたが、それでも英語や漢学、和漢文を教え、体操などもした。教師は英学校から来て女学会を助け、生徒もしだいに増え30名ほどになった。
なお、ヤソ教の学校はなかなか許可されなかったが、明治22年ようやく校舎も新築され許可もおりた。
1890明治23年1月、私立熊本女学校開校式と落成式をあげる。
順子は生徒監督として、生徒と起居をともにしながら、生徒の人格と個性を尊重する教育をおこなう。 <愛・慎み・忍耐>は、順子の自戒のことばであり、教育方針であった。
ちなみに1891明治24年、夏目漱石が五高教授として熊本に来、4年余りを過ごした。その間、結婚をし、熊本を舞台に小説も書いた。『草枕』はよく知られる。
「竹崎順子の片影」徳富健次郎(蘆花)
――― 北風吹き来たり手寒さを覚ゆる頃となれば、必ず先生のお手許には砂糖と橙とが備えられし記憶す、毎夜勉強を終へて先生のお側に集まり、歌うたひ、感話をなす間に、先生の鋭き御注意の眼に認められし風邪の者は、総て呼び止められて橙湯の温きに、古郷の祖母を忍びし事も度々なりき。
――― 暗い教室から祈りの声。ある夜私は勉強時間に階下にいきました。階下はひっそりして先生のお姿も見えません。その中に一種悲愴なる、且つ熱烈なる、且つ熾烈なる小さな、しかも力のある声が聞こえました。私は何ともいへない初めて感じた一種の感にうたれ立ちすくみました。それは暗い教室よりもれる先生のお祈りでありました(『寄宿舎と青年の教育』滝浦文也1926単純生活社)。
1894明治27年、日清戦争。熊本女学校、第三回卒業式、本科生6名が卒業。
1897明治30年、熊本私学校は廃校になったが女学校は独立再認可を出願、許可を得て名実共に、竹崎順子の熊本女学校となる。それまで校長は他から招いていた。
以来、順子は死去するまで、熊本女学校(現・大江高校)の校長を務めた。当時、多くのキリスト教系女学校は、アメリカなどのミッションの援助を受けていた。しかし、竹崎順子は熊本女学校を日本人だけの手で運営したので、「みそ汁ヤソ」などとよばれたという。なお、女学校の経営は厳しく資金難が続いていた。
1904明治37年、日露戦争。
〔出征者をおくりて〕
大君に身をささげつつ大丈夫の 今日の御立ちの勇ましきかな
ますら男が神の利鎌を手にぎりて しこの醜草かりつくすらん
1905明治38年3月7日、大江村で徳富久子・矢島楫子・河瀨貞子の三人の妹をのこして死去。80歳。
参考: 『新熊本市史 別編 第三巻 年表』2003熊本市 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『学習人名辞典』1992三省堂
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