第五代仙台市長はもと幕府の旗本、和達孚嘉 (宮城県/静岡県)
けやきのブログもいつしか記事数が500を越えた。中には追記したい項目や人物もあるが時間が経ちすぎ、追加書き込みできないのもある。その一方、数が多い分、前に登場した人物・事柄を紹介できる。
毎週更新は忙しいが、さまざまな人物に出会え、教えられ、楽しい。
たとえば、今回の和達孚嘉(わだち たかよし)、家は旗本、江戸生まれだが静岡県出身としている。徳川家に従い移住した武士たちは江戸で生まれても静岡県人と名乗ったようだ。徳川家の領地となり静岡に沼津兵学校ができたが、和達は入学せず早くに静岡県の役人になった。そして宮城県に移る。
その経緯は判らないが沼津兵学校出身者が各界に求められたように、和達は優れた人材として請われ宮城県へ赴いたのではないだろうか。
和達 孚嘉 (わだち たかよし)
1842天保13年10月20日、幕府旗本の家に生まれる。
1868明治維新、一家で静岡に移住。静岡県士族となる。
1877明治10年ごろ、静岡県一等屬から宮城県一等屬に移る。
租税課長から大書記官に進んで、初代宮城県知事・*松平正直をたすける。
*松平正直: 福井藩士・松平源太夫の次男。戊辰戦争では越後口に出陣。地方行政に明るく松方・山県内閣で内務次官を歴任した明治・大正期の政治家。明治11年宮城県権令のち熊本県知事。
1886明治19年、東華学校創立。前身は宮城英学校(設置主は*富田鉄之助)。
この学校は地元政財界が経営主体となる商議会を構成、「半官半民」的中等教育機関であった。
普通科は修身・和漢学・英語・ドイツ語・地理・歴史・数学・博物・生理・物理・科学・図畫・聖書(随意)及び体操の14科。修業年限5年。
高等科は修身・英語・ドイツ語・歴史・数学・地質・鉱物・天文・理財・政治・哲学・神学(随意)・体操の13科。
修業年限2年。授業料1ヶ月平均75銭。寄宿舎あり。生徒数は明治21年200余名。
創立発起人・*富田鐡之助、松倉恂(仙台区長)、商議会・和達孚嘉(宮城県書記官)、大童信太夫、遠藤敬止((七十七銀行)ほか、理事長・松平正直(県知事)校長・ 新島襄(同志社)、宣教師・J.H.デフォレスト。田中兎毛ほか京都同志社が送り込む。
やがて教師は熊本県士族・市原盛宏、アメリカ人4名、静岡県士族・和田正幾ら56名。
富田鐡之助は明治初期、ニューヨークで新島襄と知り合い協力してアメリカ・ボ-ド(アメリカ伝道会社)に資金を仰ぎ、東華学校開設に至る。
<けやきのブログⅡブログ>“剛毅清廉の実業家、富田鉄之助(宮城県仙台)”
1890明治23年、山形県に転じる。
? 年、辞職して仙台に帰り、中学校教師となる。
1892明治25年、東華学校設立から6年、廃校となる。
生徒や学校設備は宮城県第一中学校に編入された。この学校から、 *一力健治郎、*真山青果、山梨勝之進などを輩出し、「仙台の教育の原点」とも言われる。
けやきのブログⅡ<“明治・大正、屈指の地方紙を築き上げた一力健治郞 (宮城県)”>
けやきのブログⅡ<“ 明治・大正・昭和期の小説家・劇作家、真山青果(宮城県仙台市)”>
1893明治26年2月25日(官報)、高等官八等、*非職・山形県書記官。
*非職: 官吏の地位をそのままで職務のみ免じること。明治17年の官吏非職条例によれば、3年を1期として現給3分の1を支給、満期免官。
1898明治31年、国立銀行から株式会社に転換した七十七銀行の取締役に就任。
その際、和田の役職は専務取締役であり実質的な頭取であった。この明治30年代にはあ商業銀行や七十七銀行の取締役に幾度か就任して活躍した。
1903明治36年3月、仙台市、宮城県立高等女学校校長。年俸650円。大正7年4月、宮城県立第一高等女学校と改称される。
1907明治40年7月2日、推されて第5代・仙台市長に就任。
1909明治42年、桜ヶ岡公園(現西公園)にあった料亭「*挹翠館」(ゆうすいかん)を買収して「仙台市公会堂」(現仙台市民会館)とする。
*挹翠館: 明治19年開業。木造二階建ての料亭。
けやきのブログⅡ<“仙台の都市公園、桜ヶ丘公園・榴ヶ岡公園(宮城県)”>
公会堂はその後、西公園の中で移転・新築を繰り返して現在に至る。座敷しかない料亭が市の公会堂に転用できたのは、当時の仙台において集会は椅子席ではなく座敷席で行われるのが一般的であったためと考えられる。なお、大正5年5月、仙台市公会堂の脇に擬洋風建築の公会堂を新築。
ちなみに、和達没後の大正11年12月3日、アルベルト・アインシュタインが講演を行う。
その後、昭和20年7月10日の仙台空襲で公会堂も焼失。
仙台市長の仕事としては、田辺県知事を助けて日本最初の鉄筋コンクリート*広瀬橋を造り、電力会社・ガス会社の創設にも尽力した。
*広瀬橋: 広瀬川下流に架かる橋。鉄筋コンクリートのT桁橋で、長さ127m、幅10.3m、当時としては珍しく歩道がついていた。明治42年に完工。工事費7万5千円。昭和34年架けかえ、上流に並んでいた市電専用鋼橋も中央に複線の軌道敷設され、橋幅は22mとなる。現在は市電の廃止とともに車道4車線となっている。
1910明治43年4月、仙台市長退任。
1919大正8年5月、死去。享年76。
孫は昭和期の気象学者、和達清夫(初代気象庁長官)。以下は 清夫の後輩、吉武素二の思い出話、
――― 昭和31 年12 月1 日、和達さんのお伴をして、 大谷和夫君と岐阜へ赴いた・・・・・・根尾谷断層を見に行く。明治24年10月28濃尾地震による大断層で、世界的にもよく知られている。農家に立ち寄り、 古老から当時の思い出を聞き出しておられた。歳月は流れ、曽ての大断層も雑草に掩われていた・・・・・・
――― 昭和41年春、 私(吉武)は仙台管区気象台に転勤。出先官庁の長の集る会で仙台市庁舎を訪れ、歴代の市長の写真が掲げてあるホールで和達孚嘉の名を見つけた。
仙台市史によると 仙台市に大きな足跡を残され、市長退任後は 漢籍に親しまれ、「迂叟」と号し・・・・・・ つい先日和達さんの御長男・ 嘉樹さんに電話したところ、父がおじいさんの名前の一字をもらって嘉樹と命名されたとのことだった。
参考: 『宮城縣史29』1986 宮城県 / 『宮城之栞』1888宮城県士族・庄子正光 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『角川日本地名大辞典』1979 / 雑誌<天気42>1995-07-31(吉武素二)
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