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2018年11月24日 (土)

鉄道のはじめ、武者満歌(江戸)& 鉄道・土木、鹿島精一(岩手県)

 どうして、こんな面白い人物が埋もれているのだろう。そう思いつつ書いた「明治の一郎こと山東直砥」に興味をもってくれたらうれしい。主人公でなくても登場人物の誰かに親しみをもったらそれも愉しい。山東はたくさんの人と出会い世話になったが、人と人をつなぎ援助もした。
 そうした縁に、横浜居留地第一号マセソン商会の英一号館ほか外国商館を手がけ「洋風の鹿島」とうたわれた鹿島岩吉がいる。その息子が「鹿島組」鹿島岩蔵、その養子が土木建築業界の近代化を進めた(葛西)精一、岩手県生まれである。

 ――― 明治の初め、鉄道の工事は工部省が直接行っていたが、現場の指揮は御雇外国人技師であった。ところが外国人技師とは言葉も通じない。それなのに知識もなく訓練されてない人間を指図したから工事がはかどらなかった。そこで、井上勝(鉄道頭)は、組織され統制のとれた労働力を管理できる業者を探しだし、これと思う業者に鉄道請負への転向を勧めていた。その一人として岩蔵を見込んだ。
 鹿島岩蔵は井上の話に意欲があったもののためらった。建築請負から土木、鉄道請負への転向には大きな決断と、なにより巨額の工事保証金を出仕してくれるスポンサーが必要だったから・・・・・・ その鹿島に山東直砥が助け船をだした。縮刷大蔵経に大金を出資した平瀬露香をスポンサーとして岩蔵に仲介したのである(『明治の一郎 山東直砥』)。

 そこで鉄道と鹿島の話をと考え、参考に『鉄道に生きた人びと』を読んで、わが国最初の鉄道の測量をした<武者満歌(むしゃまんか)>という人物に興味をもった。そこでまずは武者満歌を紹介したい。

           武者 満歌  

 1848嘉永元年1月4日、江戸本所石原町の旗本の家に生まれる。幼名・友太郎。
 1864元治元年6月、徳川幕府軍艦奉行支配下の海軍に奉職。
   ?年、 明治政府の海軍操練所で数学・測量を学ぶ。

 1870明治3年3月、民部・大蔵省「鉄道掛」開設、見習として就職。23歳。

  ――― 業務が両省にまたがることから、*民部省の土木司・監督司、大蔵省の出納司の各職員が担当した。まもなく、鉄道掛は民部省の所管となる。
      民部省: 戸籍・租税・駅逓・鉱山・済貧・養老を管掌。のち所管事項は、大蔵省ついで内務省に引き継がれた。
  この明治3年、わが国最初の鉄道測量が開始。東京側は芝口汐留付近、横浜側は野毛浦海岸から測量に着手。武者は新橋-横浜間のうち新橋-六郷川間の測量を担当。
 測量は御雇イギリス人技師が分担し、この指導のもとに、小野友五郎・武者満歌ら多くの日本人技術者、助手が随行して開始された。
      “咸臨丸航海長・小野友五郎 (茨城県笠間)”
     https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/04/post-80ca.html

   4月、算術・代数、三角術などの試験を受け合格。[准16等出仕 鉄道掛]の辞令。
 御雇外国人の測量助手として、松永芳正らとともに鉄道技術を学び、次いで、大阪-神戸間を測量。

   ――― (武者の懐古談) 鉄道職員の給料が石高を基準として金で支払われていたため、米価の上がり下がりによって給料が変動した。
   ――― (同) 私は洋語が下手なので桜井伝蔵という通訳係をつけてくれたが、この桜井といふ人は赤ん坊のときから外国で育ち、伊藤公が英国に行った時、一緒に連れ帰った人であるから、洋語は達者だが日本語が甚だ危ない。これには弱ってしまった。
 ・・・・・・ 日本人技術者の装束は、毛織りの「だんぶくろ」の小倉の脚絆を付けて、雪駄か「わらじ」をはき、チョンマゲを結び、帽子は表黒漆、裏朱塗の陣笠を「ハイカラ」化した笠を太き紐で顎に括り付けたものであった ・・・・・・ 腰には大小両刀を佩用したので重くて動作に不自由であったから、時の鉄道掛長(鉄道事務総理監督正)上野景範氏は見かねて、上司にこひて測量員に限り廃刀の許可を得た。
 それで廃刀は測量員から始まった・・・・・・ しかし、廃刀は当時の習慣上、非常に大問題で上野さんから民部卿に願書を出して漸く許可になったのです。
     廃刀令: 明治9年、軍人・警察官以外の士族などに帯刀を禁じた太政官布告。

   ――― (同) いま一つ困ったことは、汽車道を付けるには仕方なしに海岸線を選ばねばならないのであるが、今と違って埋立地もないので測量機の据え場がない。これがまた一苦労で、波の打ち寄せる海中に入って測量機を立てることもできないので、干潮の時をみはからってやるのであるが、品川辺の海といったら、底は泥田のようなものだから膝まで埋まってしまう。マゴマゴしていればまた潮が満ちてくるといふ訳で、海岸線の測量には全く泣かされた。

 1878明治11年5月、鉄道工技生養成所第一期生。
  ?年、 卒業後、大津線、京都-深草間、湖東線大津-長浜間などの建設工事に従事。
 1892明治25年、退職。
 1896明治29年、七尾鉄道建築課長。鹿島組顧問などを歴任。

 1921大正10年10月、鉄道50年式典において鉄道功労者として表彰される。
 1941昭和16年、京都市上京区東丸太町の自宅で死去。93歳。

           鹿島 精一  
 1875明治8年、盛岡市上田の旧南部藩士・葛西晴寧・すえの長男として生まれる。
 1876明治9年、県吏員だった父が死去。母の実家・出淵家に同居。出淵家の次男はのちの駐米大使。

 ――― 「鹿島組」(現代のスーパーゼネコン鹿島建設)が「日本線」(のちの東北線)工事のため盛岡に進出、出淵家のとなりに事務所を開く。その縁で、精一は岩蔵に見込まれる。
 1892明治25年、盛岡中学卒業後上京し鹿島家に寄寓して一高から東大工学部に進む。
 1899明治32年、卒業後、逓信省の鉄道作業局に入る。
    岩蔵の娘・糸子の婿養子となり、鹿島組副組長として経営内容改善にのりだす。

 1912明治45年、岩蔵死去。
      精一は三代目鹿島組組長として、当時の建設業界の花形部門である鉄道建設の専門業者として組の実力をつけ、土木建築業界の近代化を推進。当時の土建業界といえばツルハシとトロッコが主力であり、機械化も新技術もいまだしであった。精一は、経営を見直すとともに、工法の積極的な開発と技術者を養成した。

 1918大正7年4月、当時日本一長い「丹那トンネル」の工事始まる。難工事につぐ難工事のため完成まで16年半かかる。この間、技術畑の精一は陣頭にたった。

 1930昭和5年、鹿島組を株式組織とし、初代社長になる。
 1934昭和9年、新東海道線の丹那トンネルが開通。「鉄道の鹿島」の名をあげる。
 1947昭和22年2月、72歳で死去。

   ――― 明治戊辰戦争で、賊軍の汚名に泣いた南部藩士たちの、維新後の困窮はきびしかったが、その子弟たちの中から多くの人材を輩出させた。葛西(精一)・出淵(勝次・駐米大使)・鈴木(*舎定)家などはその典型である(『岩手の先人100人』)。

       “東北の自由民権 鈴木舎定(岩手県)”
     https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/08/post-545a.html

 

   参考: 『岩手の先人100人』1992岩手日報社 / 鉄道建設小史『鉄道に生きた人びと』沢和哉1977築地書館 / 『鹿島岩蔵小伝』2011鹿島建設総務部史料センター 

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