自由民権あまりに性急すぎて、赤井景韶 (新潟県)
大河ドラマを見ていず、テレビの西郷隆盛の活躍振りは分からないが西郷が嫌いな訳ではない。生意気と怒られそうだが、西南戦争の終わり「西郷の死を知った政府軍の将校たちが、喜ぶよりも悄然として言葉がなかった」 「西郷星」など西郷の人間性が感じられるエピソードもありどちらかといえば好もしい。
“西郷星”
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西南戦争後、著作や新聞、雑誌を通じて民権運動が人民大衆に広まり広く浸透、自由民権運動が全国的に拡大する。政府は集会条例などで弾圧を加え、激化事件が続発した。
1882明治15年、福島事件。
三島通庸福島県令は三方道路建設を決め、巨額の人民負担を強制。この道路工事強制動員に対し、福島県会議長・河野広中ら自由党員が反対運動を展開する。 農民ら数千人が警官と衝突したのを機に、政府転覆の盟約作成容疑で自由党員が多く逮捕処罰された。赤井景韶は新潟県高田から現地に赴き思う所があった。
1883明治16年、新潟県で高田事件。
北陸地方の自由党員26人が「大臣暗殺、内乱陰謀容疑」で逮捕され、高田警察署におくられたのである。事件前、状況を内定していた内務省警保局・柴太一郎(柴五郎の長兄)は、勝間田警保局長に
「完全ナラズシテ軽率着手セシ辺ハ免レマジク哉」証拠不十分だと報告したが自由党員らが検挙された。
しかし、ほとんどが証拠不十分で釈放される。ところが赤井景韶(あかいかげあき)は監獄入りし刑に服すが、なんと脱獄したうえ事件を起こす。近ごろ実際にあった逃亡事件で134年前、明治の脱獄逃亡事件を思いおこした。
赤井 景韶 (あかい かげあき)
1859安政6年、新潟県越後国中頸城郡高田木築町に生まれる。父は越後頸城郡(くびきぐん、新潟県)におかれた高田藩士、赤井喜平。
1868慶応4年、戊辰戦争。父の喜平は長岡城攻撃に参加して戦死。
1877明治10年、西南戦争。
政府の*内務省警視局は巡査を募集しながら兵として新撰旅団を編成して熊本・鹿児島へ出征さる。赤井はこれに応募し東京を出発、薩南で激戦奮闘の日を送る。
内務省: 明治6年、大久保利通により大蔵・司法・工部など各省と警保寮から勧業行政と治安維持の関係部局をひきついで設置。昭和22年廃止。
警保局(のち警視局): 警察業務を担当。戦前の官僚機構において中核の位置を占めた。
1881明治14年、赤井景韶22歳は、憂世憂国の情を深め感ずるところがあり、官を辞して帰郷。
代言人(弁護士の旧称)を開業。そのかたわら諸処方々を訪ねて国事を語りあう。
同年10月、明治14年の政変で大隈重信一派が追放され、薩長藩閥政府が確立。
同年12月、頸城自由党が設立され、赤井はこれに参加して党務に尽力する。
当時の新潟県は、国会開設運動・政党の結成(頸城自由党・北辰自由党・上越立憲改進党などの地方政党)などを実現させ、自由民権運動が高揚していた。
1882明治15年11月8日、頸城自由党青年党員・赤井景韶は、時勢を憤慨して「天誅党主意書」をしたためた。さらに、友人二人と上京して政治改良をはかろうと郷里の高田を出て新潟に赴く。しかし、鈴木昌司・山際七司らに説得され翻意した。
1883明治16年3月、官憲のスパイ長谷川三郎が北陸七州自由党懇談会を偵察しようと策動。自由党員らが大臣暗殺・内乱の陰謀を企てていると密告。
罪状の根拠はなかったが、家宅捜索で発見された赤井の「天誅党主意書」を口実として、新潟地方の自由党員がいっせい検挙された。この高田事件を契機に北陸地方の民権運動は苦難の時代に入る。
天誅党主意書:ほかに「天誅党の首謀者としての判決文」も、『赤井景韶伝』(1932半狂堂主人(宮武)骸骨)に全文が掲載されている。
赤井景韶は内乱陰謀のかどで高等法院へ送られ大審院判事・玉乃世履の宣告で重禁錮9年の刑を受け石川島監獄に投獄された。
赤井家では母と妹が、ほかの自由党員と同じく赤井も放免されると信じて待っていた。また、監獄には福島事件の河野広中がいて血気にはやる赤井をいましめた。しかし、赤井は耳を貸さなかったらしい。
1884明治17年3月26日、赤井は同じ獄内の石川県の松田克之という謀殺犯(大久保利通暗殺事件で禁獄終身)に持ちかけられ、一緒に石川島の禁獄監を脱獄、逃亡。
その晩、小菅の集治監に近いところで車夫を打ち殺した者があった。追っ手は、二人の仕業と目星をつけたが、行方がわからなかった。その翌日、松田は捕まったが、赤井は行方が分からなかった。
1885明治18年、静岡に鈴木音髙という岳南自由党(静岡県東部)の代言人がいた。鈴木は同士と相談して赤井を匿おうと、島田在の落合村にいる清水綱義方へひそかに立ち退かせた。ところがかえって静岡警察署の高須警部に捕らえられ、赤井は東京に護送される。
すでに捕らえられた松田が一切を自白していたから、赤井も潔く白状。事件は、重罪公判へ移され、二人とも死刑となる。
同年7月27日午前9時、謀殺の罪をもって鍛冶橋監獄より市ヶ谷分署に送致、絞架に上せられ死刑執行。享年26、なんという生涯、短すぎる。
なお、弁護人は元田肇と高橋一勝であった。元田はのちの衆院議長・枢密顧問官。明治・大正・昭和の政党政治である。
参考: 『怪傑伝』伊藤仁太郎1935平凡社 /『明治過去帳』1971東京美術 / 『新潟県の歴史』1998山川出版社 / 『明治日本発掘3』1994河出書房新社 /『近現代史用語辞典』1992新人物往来社 / 『日本史辞典』1908角川書店 / 『日本人名辞典』1993三省堂
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