明治のキリスト教教育家、押川方義(愛媛県・宮城県仙台)
戊辰戦争にはじまる明治維新、さらに明治4年の廃藩置県により270の大名たちが消滅、家来サムライ(士族)が一斉に失業したのである。各地で士族の反乱があいつぎ、ついに明治10年最大の士族反乱、西南戦争がおきるが、政府の徴兵軍隊により鎮圧される。
こののち薩長藩閥を中心とした出身であれば立身の道があった。しかし賊軍、佐幕派出身の青年にはそれがなく、佐幕派出身者は志のため、家族のため勉学に励んだ。
その方法の一つに、宣教師のもとで英学や英語を身につけそれを役立てようとする向きがあった。原敬がフランス人神父にフランス語を習ったなど知られる。
ところで、語学を習ううちに宣教師の人格的感化を受け、また聖書の魅力にひきつけられ、キリスト教を進んで受け入れる者が少なくなかった。押川方義もその一人である。
押川 方義 (おしかわ まさよし)
1849嘉永2年12月16日、愛媛県松山の城下で生まれる。父は松山藩士で大納戸役・橋本宅次昌之、母只子の3男。幼名は熊三。
1856安政4年、7歳。藩の儒学者・武知武衛門に漢学を学び、12歳ころ論語を学ぶ。
1862文久2年、熊三13歳。父は槍の名人であったが、ある事件に関係したため、その責任により割腹して果てた。一家の中心を失って収入の道を絶たれ、母の只子が機織りをして家系を支えた。
この窮状をみかねた同藩士の押川方至が、熊三少年を養嗣子として引き取り、方義を名乗らせる。
1868慶応4年、藩の英学校に入る。
同明治元年、養子先、押川方至の娘、常子と結婚。
1869明治2年、藩命により東京にでて開成校に入学。2年間学ぶ。
1871明治4年、同じ藩の者と3人で神奈川県の学校、*修文館に入学。
同じ生徒のなかに本多庸一(弘前藩、のち青山学院院長)・井深梶之助(会津藩、のち明治学院総理)らがいた。松村介石によれば、「本多も押川も純然たる古の武士」の風があった。
松村介石: 播磨(兵庫県)の人。安井息軒に儒教を学び、横浜のバラ塾で聖書を学び、キリスト教に入信したキリスト教指導者。
修文館: はじめ奉行所付属の英学校で、横浜在勤役人の子弟の教育のために奉行所役宅に設置された。維新の混乱で一時中断していたが、神奈川県が神奈川県英学校修文館として再興、英仏学・漢学を教えた。キリスト教はまだ許されていなかったが宣教師はS.R.ブラウンが教授した。
押川はブラウンに感化を受け、また、もう一人の宣教師ジェームス・バラにも影響も受けた。
1872明治5年1月、横浜居留地に住む宣教師や信者たちの祈祷会があり、これを見た押川らバラ塾の学生たちもこれにならった。
まだキリスト教は明治6年、キリシタン解禁まで未だ禁制であった。しかし9名がバラから受洗、日本最初の教会、日本基督公会を設立。 押川は長老の一人となったが、ある意味で非合法の覚悟で、いつ官憲に捕らえられるかもしれないのを覚悟していた。
1873明治6年、修文館を辞したブラウンが家塾を開く。のち明治学院の源流の一つ。
ちなみに、「明治の一郎」こと山東直砥は明治学院の理事をつとめている。
1875明治8年、スコットランド人T・A・バームが来日、新潟伝道に派遣されてきた。
新潟は仏教が盛んな土地でキリスト教伝道をすると激しく迫害された。バームの通訳をしていたブラウン塾の学生が逃げ帰ると、後任を志願する者がいなかった。 そこで押川は「それなら自分が」と申し出て、友人と水盃をして新潟へ赴いた。
仏教徒の迫害は猛烈で、あるときは白刃の下をくぐって遁れたこともあった。剛毅な押川は迫害に屈せず、福音の宣伝につとめた。その時の押川の協力者を吉田亀太郎といい、その吉田を介して伝道の拠点を仙台に移すことになった。
1879明治12年、押川は吉田の案内で仙台から米沢・山形地方をも視察。
1880明治13年、押川と吉田は仙台に移ってキリスト教講義所を開く。二人は聖書を売り歩き、路傍に立って福音を説き、翌14年5月、仙台教会を組織した。
新潟で医療伝道を続けていたバームが帰国し、押川はエジンバラ伝道局からの財源を失う。辛うじて時給独立を保つことができた。
そこで、恩師バラの勧誘を受け、横浜時代の級友が多くいる日本基督一致教会に加入する。以後、仙台教会は岩沼・石巻・古川の諸教会と東北に隠然たる勢力を形成してゆく。
1886明治19年2月、押川方義と宣教師ホーイは協力して仙台神学校を創立。のちの東北学院、院長は押川、副院長は協力者の宣教師ホーイである。
次いで宮城女学校(のち宮城学院)を仙台に創立。
1887明治20年、山形英学校を開設。時代が英語教育を必要としているのを見てとり、山形県の要路者を動かし、自ら校長となった。教頭に松村介石を迎え、外国人教師を招いている。
同年4月、第二高等中学校(のち第二高等学校)創立。
1889明治22年、海外視察。アメリカや欧米各国を周遊して欧米文明に驚くとともに、日本の地位の低いことを痛感。
1890明治23年春、帰国。
1895明治28年、大日本海外教育会を興し、朝鮮に渡り、京城学堂を創立。
1897明治30年、この年出版された川崎巳之太郎編『実験上の宗教』の押川方義の次は山東直砥である。そのほかに坂本龍馬の甥、坂本直寛・江原素六など興味深い人物が掲載されている。興味のある方は国会図書館デジタルライブラリーでどうぞ。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/824497
1917大正6年、郷里で憲政会から衆議院議員選挙に出て当選。
1918大正7年、"アジア共存の大義"を唱え、アジア民俗の自覚と奮起をうながし「全亜細亜会」を設立。
――― 特に中国問題への関心が深く「外交は正義を主とすべし。日支共同之方法、相互無欲の大志を抱くべし。共存共栄を無視すれば、両国の親和成立せず」と述べている(『明治期基督者の精神と現代』)。
1928昭和3年、死去。
なお、明治時代の小説家・押川春浪(おしかわしゅんろう)は方義の子。
“武侠社: 押川春浪(愛媛県)・柳沼澤介(福島県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/05/post-36fc.html
参考: 『明治期基督者の精神と現代』加藤正夫1996近代文芸社 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 国会図書館デジタルライブラリー
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