会津藩主松平容保の小姓はのち教育者に、髙嶺秀夫(福島県)
平成30年、2018年もいよいよ終わろうとしている。次の元号はなに? しかしイマドキのスマホ世代は気にしないかも、その日、スマホをみればいいから。映画に音楽スマホで予約、漫画も買い物も預金もスマホ。電車内はスマホに見入る人だらけ。
今なおガラ携のおばさんは、皆さん首が痛くなるんじゃないか、自分の頭を使うことあるのかなと心配になる。使わないと身体に限らず脳みそだって衰えそう。ところで、世のなか答えのでない問題がある。悩み方を知らないとすぐ追い詰められてしまいそう。
今や小学生だってスマホで情報をえる。それもあってか、道徳が授業科目になった。どうやって点数をつけるのかな。道徳教育は大切だけど方針を示すのは難しそう。そして点数を付けるにあたって時代の要請に応えるのか、否かでも判断が分かれそう。今回、教育者、髙嶺秀夫のゆくたてを記しつつ考えさせられた。
髙嶺 秀夫 (たかみね ひでお)
1854安政元年8月、会津藩士・髙嶺金右衛門(忠亮)の長男として会津若松城下の旧本四ノ丁に生まれる。 1862文久2年、8歳で藩校・日新館に入学、神童と評判。
1868慶応4年/明治元年、戊辰戦争。秀夫14歳。 *南摩綱紀とともに藩主・松平容保の小姓となり、常に君側にあって籠城戦の辛苦をなめ降伏した。
“会津藩士のカラフト、明治の教育者・南摩綱紀(福島県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/12/post-4b87.html
1869明治2年、東京でしばらく監禁、謹慎して、丹羽亀山藩の松平家の保護下におかれた。赦免後、沼間守一の私塾に通い、英語を学び始めた。
領地を没収された会津藩は、松平容保に代わり容大が、陸奧3郡を中心に斗南藩3万石を興し、廃藩置県まで存続する。
1870明治3年、東京に出て*福地源一郎に学んだ。
*福地源一郎: 号は桜痴。長崎出身で幕臣時代と岩倉使節団派遣のさいに洋行。『東京日日新聞』主筆。政府系記者として政府支持の論陣をはった。西南戦争には従軍記者として現地に赴き記事をかいた。『幕府衰亡論』など著書もあり興味深い。
1871明治4年、斗南藩の命により、慶應義塾に入学。同窓に蒲田栄吉、釈宗演らがいる。
英語・歴史・経済を学び、のちに教員もつとめた。
1874明治7年、福澤諭吉の推薦で文部省出仕。
1875明治8年、文部省の派遣留学生としてアメリカへ。師範学科取調のためオズウィゴー師範学校(ニューヨーク州立大学の前身)に留学。
オズウィゴー校は、ペスタロッチの教育思想に基づく、生徒の自主性を重視する開発教育・教授法を全米に広め、教師養成のための進歩的で革新的な学校として有名であった。髙嶺は優秀な成績を修めた。
*ペスタロッチ: スイスの教育改革家。数々の教育書を発表。孤児院その他いくつかの学校を経営、自らの教育理想の実現に没頭した。
1876明治9年3月、卒業。翌10年3月オズウィゴーを去るまで、博物・心理学・生物学の学習に全力を尽くした。
1877明治10年、西南戦争。
夏、髙嶺はペニキーズ島で自然史のアンダーソン学校にかよって、有名な動物学者・バートワイルダーの下で1学期館勉強した。当時、社会的に反響をよんだダーウィンの進化論を知り、動物学を学んだ。
また、セイラムニにおける夏季学校に入学し海産動物を研究、冬期休業中はニューヨーク州イサカ大学校で動物学を修めている。寝食を忘れて新知識の吸収に努めた。
1878明治11年、アメリカから帰国。東京師範学校(筑波大学の前身の一つ)教官。
ペスタロッチの教育思想に基づく、生徒の自発性を重視する開発教育は、師範学校を中心に全国に広まりブームとなった。古い体質の東京師範学校の改革に着手した。
また、師範学校で動物学を開講、東京大学でも生物学教授モースの助手を兼任し、動物の科学的な解剖実験を行っている。やがて学校長補、ついで校長となる。その功績によって高嶺秀夫は「師範学校の父」と呼ばれる。
1886明治19年、翻訳書「新教育論」――「教授原理の実際」の訳著を発表して、当時の教育界に大きな影響を与えた。下記デジタルコレクションで全4巻読める。
『教育新論』ゼームス・ジョホノット著[他](東京茗渓会1886)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/808511
1893明治26年、病気のため、校長を辞職。
この年シカゴ万国博覧会、日本の展示に尽力。
1899明治32年、東京女子高等師範(お茶の水女子大学の前身)校長。東京美術学校・東京音楽学校(ともに東京藝術大学の前身)の校長を兼任。帝国博物館理事。
わが国師範教育の基礎を確立し、注入主義を排しペスタロッチの開発主義教育を主唱して教育界に影響を与えた。女子の体位向上と良妻賢母陶冶主義を鼓吹し、女子職業主義に反対した。
美術家フェノロサと交わり、日本美術、とくに浮世絵に造詣が深く、美術の鑑識にも長じていた。
1907明治40年、第1回文展(日展)で審査員を務める。
1910明治43年2月21日、晩年は中風に罹り長く病床にあったが、心臓麻痺のため死去。享年57。
官報「東京女子師範学校長従三位勲二等薨去」
資性温良、学生を愛し諄々と教えたので学生からも慕われた。葬儀には各界から千人以上の人が参列し別れを惜しんだ。墓所は豊島区駒込の染井霊園。
参考: 『会津人物事典(文人編)』小島一男1990歴史春秋出版 / 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂 / ウイキペディア
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