日本のアンデルセン、久留島武彦(大分県)
12月の上野駅ホール、パンダのぬいぐるみもクリスマスバージョン。ツリー下の小さなお家のパンダの前は、さまざまな言語が飛び交い、日本人はもとより肌色・目の色・髪色さまざまなスマホの持ち主で賑やか。
近年、外国人を観光地・繁華街はもとより近所でもよく見かける。そしてこの先、外国人労働者の受け入れを拡大する入管法案が成立するとますます増えるでしょう。どんな社会になるのかな。
ふりかえれば、明治のはじめ西欧から御雇外国人が多く招請された。西洋の学問・技術の輸入や制度の整備のために官公庁や学校などが招いたのだ。当時の新日本は、西洋に追いつき追い越せと官も民もせっせと励んだ。奮闘努力する明治人の物語は枚挙にいとまがない。
今回の人物はそうした明治に生まれたが、子どもたちに童話を口演し、お伽噺・童謡の作詞者としても活躍した児童文学者・久留島武彦。ただし久留島も明治初期の生まれ。軍人として台湾に出征もし、尾上新兵衛というペンネームで軍事小説を書き人気もあった。 童話を口演するまでに紆余曲折があったのである。
その過程に興味をもつと同時に、旧*豊後森藩主・久留島家の生まれというのにも関心をだいた。
ちなみに、久留島家の先祖は瀬戸内海の海賊衆村上氏の一族で、のち豊臣秀吉に属し本領1万4千石を安堵され、水軍として活躍。次に家康に仕え豊後の森に移り、久留島と改姓。なお、森藩は明治4年7月森県、同11月大分県。
久留島 武彦 (くるしま たけひこ)
1874明治7年6月19日、大分県玖珠郡森町久留島で生まれる。森藩10代藩主・久留島通寛の長男。おもに教育熱心な母・恵喜(えき)に育てられるた。
1885明治18年、豊前中津町の小学校卒業。
1888明治21年、大分県立中学校(大分県立大分上野丘高校)入学。
英語教師で宣教師のウェンライトと出会い、日曜学校で子どもたちにお話しをする楽しさを覚える。またウェンライト夫妻の影響もあり、キリスト教の洗礼を受けた。
1891明治24年ごろ、神戸関西学院に転校。在学中は英文学に傾倒。
?年、 卒業後、帰郷し徴兵検査を受け甲種第一番で合格。
1894明治27年、近衛歩兵に編入される。
同年8月1日、清国に宣戦布告(日清戦争)。一兵卒として台湾に出征。
歩哨の任務中、外国人の観戦武官に道を尋ねられ英語で応答したところ、隊中の評判となった。久留島は一躍、連隊付き伝令となり、さらに北白川宮付の通訳になった。さらに、軍務の余暇に匿名(尾上新兵衛)で東京新聞に続き物『近衛新兵』を掲載。
また、雑誌『少年世界』に作品を投稿、主筆の巌谷小波(いわやさざなみ)に認められ軍事物を書きはじめる。これがのちに童話の世界で活躍するきっかけとなる。
*巌谷小波:童話作家。父・修は近江水口藩の藩医、一六居士と号し書道家・漢詩人としてしられる。創作童話『こがね丸』で人気を博した。
1895明治28年4月、日清講和条約調印。
台湾から凱旋後、下士営勤務となる。小波方の玄関を借りて軍務のかたわらお伽文学の研究を2年間。
1897明治30年、神戸新聞に就職、白河鯉洋らと筆をふるったがまもなく辞職。
その後、6年間、「大阪毎日新聞」記者・雑誌記者・商館番頭・通関業者など職業をかえること5たび。しかも大阪・神戸・横浜・上海・東京など各地を放浪したが何ら得るところなく煩悶懊悩するばかり。そうしたおりしも軍艦三笠乗組参謀長・海軍中佐・松村菊男に出会い、「目的の単一」なる座右の銘を与えられる。そして、目的を童謡・お伽噺の世界に絞り、活動をはじめる。
1904明治37年、日露戦争開戦。翌年、アメリカの斡旋で講和が成立(ポーツマス条約)
1906明治39年、日本初の口演童話会を開催。日本全国の小学校・幼稚園で童話を語り聞かせ、たいへんな評判となり、その数は6000を超える。
――― 口演童話が児童に広く受け入れられたのは、巌谷が落語・歌舞伎・講談になじみ、大衆芸能の素地を身につけ、また久留島も、日曜学校でのキリスト教伝道の経験により、すぐれた話術をもっていた。また二人の知名度によるところも大きい。この二人は、*蓮沼門蔵が創設した修養団の精神教育幼年会の活動にも協力している(『少年団の歴史』)。
“修養団・蓮沼門三(福島県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/08/post-39b3.html
1910明治43年、東京で早蕨幼稚園を開設。*山住正己はこの幼稚園に通ったという。
*山住正己: 『唱歌教育成立過程の研究』東大出版会・『洋楽事始め』東洋文庫・『教科書』岩波新書など著作がある。
1911明治44年4月16日、清水晴風の還暦祝賀会。
久留島は人類学者・坪井正五郎らと発起人となり会を催す。講武所芸妓連の踊りや一龍斎貞水の講談など余興もあった。
“郷土玩具のバイブル『うなゐの友』おもちゃ博士、清水晴風(東京神田)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/04/post-60d0.html
1912明治45年、文部省の嘱託を受けアメリカの通俗教育状況を視察のため渡米。また、児童の社会事業を調査して帰国。
1924大正13年、日本童話連名が創立され、巌谷小波らとともに顧問になる.
この年8月、デンマークで開催されたボーイスカウト第2回世界ジャンボリーに、日本から24名が参加。派遣団団長・三島通陽、京都少年義勇軍を指導・中野忠八、児童文学の草分け久留島武彦連盟理事は副団長として参加。
このとき、アンデルセンの生地オーデンセを訪れ、アンデルセンの生家や墓が荒れていたのに心を痛め、当地の人々にアンデルセンの復権を訴えた。これに心を動かされたデンマークの人々は久留島を「日本のアンデルセン」と呼ぶようになった。
1945昭和20年、東京の自宅と早蕨幼稚園を空襲で焼失。
前出の山住正己は久留島の戦時中について次のように述べているが、出自や軍人であったことを考えると偏ってしまいそうだ。でもその後、久留島らは子どもの立場を大事にして活動した。
――― 口演童話の運動で大きな功績をあげた人で・・・・・・ 児童文化の発展にとって彼の果たした役割は今日、高く評価されている。しかし、戦時中には、桃太郎の鬼ヶ島征伐「侵略主義」を教育の方針としていた・・・・・・ こうした弱点をかかえながらも、子どものためにつくられる歌は、少しずつだが、子どもの立場を大事にして、子どもに親しまれる歌に改められていった。
1949昭和24年、傳香寺の境内に建てた「香積庵」に転居。
1960昭和35年6月27日、死去。
氏は性温和にして、君子の風あり、天真爛漫玉の如く、花の如き児童をば、教え導く、氏の天職も亦幸多く楽しみなる哉(『大分県人士禄』)
<毎年5月5日に日本童謡祭>
郷里に、童話碑・久留島武彦記念館がある。生涯を口演童話に捧げ、つぎのような著書がある。童謡「夕やけ小やけ」を作詞しているが、中村雨紅の「夕焼け小焼け」とは別の作品である。
子どもの頃、ラジオで童謡をよく聴いていたが、今はあまり耳にしないし、テレビでも見かけない。懐メロが折にふれて放送されるが、懐かしい童謡番組があってもいいような気がする。
<著作>
『国民必携陸軍一斑』・『戦塵 軍事小説』(尾上新兵衛)・『脚本「蛙三の笛」 趣味教育お伽芝居』・『御局生活 明治の女官』・『お伽五人噺』・『久留島お伽講壇』・『三郎の飛行船』・『鼻なし村』・『夢の行方』・『新文明主義 附・雄弁術』・『通俗雄弁術』・『長靴の国』・『童話術講話』・『水雷勇士』etc
参考: 『おもちゃ博士・清水晴風』林直喜2010社会評論社 / 『子どもの歌を語る -唱歌と童謡-』山住正己1994岩波新書 / 『ボーイスカウト』田中治彦1995中公新書 / 『少年団の歴史』上平泰博ほか1996萌文社 / 『大分県人士禄』1914 / ウイキペディア
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