大政奉還後の後藤象二郎と柴四朗、山東直砥(土佐・会津・和歌山)
2018年春『明治の一郎 山東直砥』を、秋に『増補版・明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』を出版。平成最後の年末、「読んでもらえたらうれしい」子どもを世間に送りだした親の心境。
ところで、この2冊は時代が同じで登場人物も重なる。しかし執筆中は意識したことがない。なにしろ「明治の兄弟」初版は10年前で忘れていることも多い。
2冊並べたところで、後藤象二郎、東海散士・柴四朗、山東直砥の3人が互いを見知っていると気づき、後藤を中心に3人を並べてみた。後藤を知る人は多くここで採りあげてもと思うし、生き様にも感心することばかりではないが、年末年始の週、坂本龍馬の影響で幕府に大政奉還を建白という派手な後藤象二郎でいいかも知れない。
後藤没後まもなくの伝記『後藤象二郎』秋川鏡川(岩崎英重)を参照しつつ、わが主人公東海散士柴四朗と山東直砥の交情をとりだしてみた。
ちなみに同伝記は国会図書館デジタルライブラリーにある。後藤・西郷・木戸・土佐勤王党などの若者が時流にのって奔走する様がいきいきと描かれている。
後藤 象二郎
1838天保9年3月19日、高知片町で生まれる。父は土佐藩士馬廻格150石の後藤助左衛門。幼名、保弥田。
近所の板垣退助(天保8年生れ)と仲がよいのはいいが、「二童相携へて横行暴恣、夙に郷党の忌む所」であったらしい。
1849嘉永2年、父死去。父の実家で養われ叔母の夫、吉田東洋を師とし、父として教えを受ける。
1854安政元年、17歳、ペリー来航。吉田東洋に従い江戸へ。安政5年、幡多郡奉行。
1860万延元年、近習目付。
1862文久2年、江戸の大鳥圭介に英学を学ぶ。
1864元治元年、27歳、大監察となり藩政にかかわる。
1865慶応元年2月、容堂(第15代土佐藩主・豊信)の命を受け、薩摩に赴き島津久光に会う。
3月、長崎商法掛として長崎に赴き、坂本龍馬と清風亭で会合、深く結ぶ。
1866慶応2年、伊呂波丸事件に関し土佐藩の名をもって、紀州藩の勘定奉行と談判す。
6月、容堂の命で龍馬を伴い京に赴き、龍馬と共に西郷吉之助らと往来。
10月3日大政返上の議を幕府に呈す。13日諸藩の重臣と共に二条城に至り慶喜の下問に答える。
20日朝廷に参内。
12月、容堂とともに参内、徳川氏の待遇について大久保らと激論。
1867慶応3年5月、長崎港内には坂本龍馬と海援隊の船が停泊していた。山東一郎と薩摩藩士・堀基が龍馬を訪ねると、快く話を聞いてくれた。一郎が張りきって樺太開拓やロシアの侵出について話し出すと座に居合わせた一人が、
「君の説はもっともだ。しかし、樺太を実地見聞した自分からすると、彼の地は極寒の境地で邦人の移住が難しいだろう」という。一郎はこれを聞くなり「君は国賊だ」と罵った。すると「国賊とは何だ」と言い返された。一郎は
「足下が樺太の実況を知りながら、我が土地の惜しむべきを知らずして、これを露人に与えんとするなり。国賊に非ずして何ぞや」。これに対し返す言葉がみつからないのか相手が沈黙すると、同席していた土佐藩参政、後藤象二郎が一郎の意見に同意してくれた。
後藤と一郎は、この日この時、初めて顔を合わせ生涯の知己となる。
1868明治元年、大政奉還。外国事務掛。
2月、31歳。参内するイギリスの駐日公使パークスを襲った暴漢を、パークスを護衛していた後藤が斬った。
7月、大阪知事を兼任する。
1869明治2年、山東一郎、北門社新塾を早稲田に開設。大隈重信は明治14年の政変で下野し北門社の跡地に東京専門学校(現早稲田大学)を開校する。
このころ、柴四朗は沼間守一の英語指南所で学んでいたが、沼間が新政府に出仕し閉鎖となったため、山東一郎の北門社新塾に入る。
1870明治3年、蓬莱社設立。後藤が中心となり鴻池善右衛門ら特権的な大阪の旧十人両替商と、洋式製糖、製紙を起こすため設立した商事会社。後藤は大阪知事をし大阪商人とは旧知、また実業に興味があった。
1874明治7年1月、西郷と同じく征韓論に敗れ下野した板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平ら八人が民撰議院設立建白書を左院に提出。
1876明治9年、高島炭鉱を手に入れ経営。
高島炭鉱は蒸気機関による日本最初の竪坑、海底炭鉱。炭鉱の近くに後藤象二郎邸、少し離れた海岸にグラバーの別荘があった。炭鉱跡は近くの軍艦などとともに世界遺産になっている。
グラバー: イギリスの商人。勤王派諸藩と深く接触、艦船・武器・弾薬類の大量取引をしていた。グラバー商会は明治3年解散したが、後藤の高島炭鉱経営にかかわる。
1878明治11年7月、長崎から後藤が妻ユキに宛てた六日付電報がある。
筆者は山東家で電報を閲覧したが、カタカナ電文「サントウノコトイマシンハイ………ニジウイチニチ………ゲンカイマルニテガミナシイカガナル………」断片しか読めない。山東の報告が二十一日長崎に来た玄海丸?に無くて心配の意味なのだろうか。ともあれ電報は高輪の後藤邸(現在のプリンスホテル辺り)から芝公園地の山東家に届けられたようだ。
それから間もなく、後藤は体調をくずし、長崎から東京に戻ってきた。代わりに山東が高島に出張する・・・・・・ 山東は窮迫している後藤に、第二銀行(横浜為替会社)の株券数枚を渡して急ぎ長崎に出発。
負債山の如し後藤だが元来無頓着で、立派な洋館の芝をはぎとって売り小遣いにしたりとか、仕事賃を払わなかったので大工が馬車に飛びついて賃金を催促したりなど世間に知られるほど窮迫していた。勝海舟がそれを聞きつけ後藤を助けようとしたが、負債の額があまりに大きいので「後藤はアジアに少しく太すぐる動物なりぞ」と、ため息ついて思いとどまったという話もある。
1881明治14年3月、後藤象二郎と岩崎弥太郎の連名で高島炭鉱譲渡の約定なる。
山東直砥の住む芝公園から遠くない所に福澤諭吉の慶應義塾、その先の高輪に後藤象二郎邸があった。後藤びいきの福澤はたびたび後藤邸を訪れ、ときに山東と連れだっていくこともあった。
時に三人の間で世間に内密の話合いをした。世間に知られたくない話とは高島炭鉱買収の件である。負債の多さに岩崎が買収をためらっていたのである。
10月、板垣と後藤で自由党を創立。
1885明治15年4月6日、板垣退助、岐阜で遭難。そのとき叫んだ“板垣死すとも自由は死せず”は自由民権の合い言葉となった。
事件から半年あまりの11月、後藤は板垣と洋行。これに反対の馬場辰猪は、
「自由党はやっと結成されたばかり。基礎もなにもできていない時期に党の最高責任者が洋行して、永く党を留守にするなどとは常識だけからみても話にならない。まして政府の金で洋行するなど以てのほかである」と意見したが、聞き入れられず離党する。
この年、柴四朗は東海散士の名で『佳人之奇遇』初編を発表してベストセラーとなる。以後、第8版まで続くが、第三冊序は、暘谷居士こと後藤象二郎が寄せている。
1885明治18年、後藤は熱海に別荘を建てる。後年、柴四朗も熱海に家を建てて住む。
1887明治20年10月3日、このころ自由民権運動は四分五裂で沈滞していた。
後藤は東京芝公園内の三縁亭で懇親会を開催、旧自由、立憲改進の党員らに保守派も参加した。
当時、自由党と改進党は激しく反発していて、これでは政府の為になるばかりで政党本来の目的に反するから、小異を捨てて大同を取ろうと大同団結を提唱したのである。
メンバーは中島信行・星亨・尾崎行雄・犬養毅・高田早苗・杉浦重剛・豊川良平・田中正造・徳富猪一郎・柴四朗など総勢70人。明治23年の国会開設に向け、「大同団結せよ」と演説がなされた。
1888明治21年4月、「東北七州有志大会」福島で開催。
この日、松葉館の懇親会は後藤象二郎と柴四朗を迎え300人も集まり盛況だったが、会場の外を巡査がかためていた。当時、保安条例によって東京から退去を命ぜられた者が地方にいることでもあり、福島県庁は懇親会とはいえ雰囲気がいつもと違うので警戒したのである。 6月、『政論』発行。
1889明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布。
3月、後藤が黒田清隆内閣の逓信大臣に就任。
大同団結運動を展開して気勢をあげていた後藤の突然の入閣は、多数の同志を失望させ憤激をかった。大同団結に集まった者たちは悲憤の涙にくれて「後藤に売られた」と叫んだが、後藤は「余は大同団結の目的を内部より達成するために入閣したのだ」と平然としていた。中心を失った大同運動は今後の方針をめぐって分裂する。
1892明治25年8月、農商務大臣に就任。
1897明治30年8月4日、高輪の私邸にて死去。青山墓地に埋葬。享年60。
大政奉還の立役者・後藤象二郎は風雲的英雄で型破り、清濁あわせ呑む豪傑が生涯を終えると勅使が差遣された。
ときに、柴四朗37歳。山東直砥49歳である。
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