東京・大阪合併後、初優勝した横綱、宮城山(岩手県)
2019平成31年1月3日夕“熊本震度6弱”熊本県民も帰省中の人もどんなに驚き、不安な夜を過ごしたことだろう。災害は昨年の漢字「災」をもって終わりとしたい。
熊本といえば今度の大河ドラマの主人公は熊本出身、マラソンの金栗四三という日本初のオリンピック選手。今、マラソンや駅伝大会が盛んに行われているが、もうすぐ大相撲初場所が始まる。相撲中継今はあまり見ないが、千代の富士のミニ優勝額を持っている。
かつて、国技館の隣りの江戸東京博物館でボランティアをしていたとき、よくお相撲さんをみかけた。出世前のお相撲さんたち幕下は取り組みが終わると、浴衣姿でJR両国駅から電車で部屋に帰る。浴衣の柄もイキでかっこよかった。
駅前や構内でカメラを向ける人があるとお相撲さんは笑顔で応じていた。その様子を見るたび「お相撲さんがんばって、出世したら写真もお宝に」と思ってみていた。さて、紹介するお相撲さんは、岩手県出身ながら宮城山という名の横綱である。
宮城山 福松
1895明治28年11月、岩手県西磐井郡山目村山目字五代の人力車夫、佐藤丑蔵の4男に生まれる。生まれた時、体重は普通児の培もあった。
腕白で6歳のとき、あまりのいたずらに父親は、福松を大の男でさえ動かせない大きな臼に閉じ込めた。ところが、どう動かしたのか、福松は臼から這い出て笑ったから、父親の丑蔵もその怪力に驚いた。
1901明治34年、山目*尋常高等小学校に入学。
*尋常高等小学校: 6~14歳を教育する初等教育機関。尋常小学校(4年)と高等小学校(4年)に分け、前者を義務教育とした。のち尋常小学校は6年制となる。
学校に行きはじめは素直で真面目だったが、なれてくると持ち前の腕白振りを発揮。近くの磐井川で相撲・釣り・水泳・野球となんでも楽しみ、水泳はもっとも得意で、遊び仲間を抱えながら急流を泳ぎ回ったりした。当時まだ珍しかった野球も、旧一関中学生徒に刺激されて熱中した。のちに角界随一の野球通とも。
1905明治38年、尋常科のみで卒業。
10歳の少年ながら近所の醤油店につとめたが、まもなく家業を手伝い、人力車夫となった。体力に恵まれ、一年後には一人前となり町の人気をさらい、得意客がふえた。仕事の合間に、勤め先だった醤油店に行き、屋敷内の土俵場で力自慢の大人を相手に相撲をとって一度も負けなかった。
1907明治40年、常陸山谷右エ門の一行が岩手へ巡業に来た際に力士に憧れる。
なんとか相撲界に入ろうと思い親に黙って上京し、見ず知らずの理髪店に住み込んで働き出した。相撲をとりたい一心だったから理髪の仕事に身が入らず、本場所ごとに国技館に足を運んだ。福松の気持ちをさっした店主は弟子入りをすすめた。
1909明治42年、東京両国に国技館完成。
“旧国技館・東京駅設計の辰野葛西事務所、葛西万司(岩手県)”
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1910明治43年、相撲界入りを決心して出羽の海部屋をたずねて弟子入りを懇願。
別の話では――― 容貌魁偉剛健、骨格秀で、相撲の大斗たる出羽海巡遊に際し、君の骨格尋常にあらざるを見、年16の頃請いて弟子となし練習せしめ・・・・・・
ともあれ、入門して雑用に追われ通しだったが、寸暇をさいて兄弟子の胸を借り猛稽古に励み、実力をつけた。
ついに「岩手山」の四股名で初土俵をふんだが、親方が「宮城山」と改名させた。
由来は福松の生まれ故郷、山目村が仙台伊達藩領だったからであった。
?年8月、アメリカ巡業に加わり実力を発揮し、親方に気に入られる。
1912大正1年、五月場所に三段目に昇進。床山に対して当時は許されていた大銀杏を結ってもらって喜んでいた。そこへ幕下力士だった兄弟子の九州山十郎がやって来て、大銀杏姿を一目見るや「この野郎!生意気だ」と殴った。福松は腹に据えかね、夜逃げ同然に部屋を抜け出し大阪相撲の高田川部屋に移ってしまった。
別の話では――― 原敬閣下の紹介にて大阪相撲・高田川の弟子となり修錬熟達、幕の内入り。
1916大正5年、入幕後も意地と猛稽古で、前頭・小結・関脇へと昇進。
?年、 地方巡業で岩手県一関で興行。宮城山は隣村出身とはいえ破竹の勢いだったから歓迎してもらえると期待していた。ところが、客入りはまばらで不調に終わった。
それというのも、岩手県人でありながら隣県の名で臨む「宮城山」になじめなかったからである。宮城山は落胆したが、横綱になってこたえてみせると稽古の鬼となって励んだ。
1917大正6年、大関に昇進。
1922大正11年5月、横綱に昇進。相撲の司・吉田家から大阪相撲第五代横綱の免許が授与された。ところが、横綱に昇進する直前に瘭疽を発症、以降は休場が続いた。
“立行司、八代目式守伊之助 (岩手県)”
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?年、 横綱になって再び、地方巡業で一関を訪れると、今度は大歓迎された。郷土初の横綱で宮城山の由来も分かったからである。その足で盛岡に巡業、応援してくれた生前の原敬の恩義にこたえるためで、大慈寺の原敬の墓前で土俵入りを奉納。人は美談としてたたえた。
同年、東京大阪合併と共に、東京において夏季場所に全勝、「東宮殿下の賞杯を忝うし、以て名誉を博せり。身長5尺8寸、体重32貫、方今稀に見るの力士たり」。
1923大正12年9月1日、関東大震災。
両国国技館を失って苦しむ東京相撲との合併の話がでる。そして、番付統合を行うため大正14、15年、合併番付再編成の資格審査相撲が「東西両連名相撲」として京都・大阪で開催された。
この合併場所において大坂相撲の力士は東京相撲の力士より力量が劣ることが判明、一人だけ東京相撲の力士と互角に対戦できた真鶴秀五郎は前頭筆頭となった。
そして、宮城山は休場ばかりが目立っていたため、正式な横綱とはいえ周囲の不安は募るばかりだった。不安は的中し、宮城山の実力は合併場所通算3回の出場で11勝10敗と散々な成績であった。
しかし、吉田司家から横綱免許が授与された正式な横綱であることから格下げすることが出来ず、やむを得ず「張出横綱」として編入させた。ちなみに、これにより大坂相撲が消滅したため、宮城山は大坂相撲で最後の横綱となった。
1927年昭和2年1月、大坂相撲と東京相撲が合併して初の本場所開催。
宮城山は常ノ花寛市に敗れただけの10勝1敗で幕内最高優勝。ついに念願の優勝賜杯を手にし名声を天下に響かせた。
次の3月場所では千秋楽に常ノ花の全勝を阻み、大坂相撲の面目を保った。しかし、持病の瘭疽は完治しないままだった。
1928昭和3年10月場所、9勝2敗で2度目の優勝を果たしたのが最後になった。
1929昭和4年、巡業先の高知で見初めた寿美栄と結婚。夫36歳、妻26歳。
1930昭和5年、皇居で天覧相撲があり、宮城山は土俵入りを行った。
1931昭和6年1月場所、初日から4日連続で金星を献上、さらに3度目となる皆勤負け越し(5勝6敗)を記録、五月場所を最後に引退する。
写真はこの年、一関巡業で土俵入りする宮城山。
8月、断髪式。宮城山最後の土俵をみようとファンが押しかけ、田村丕顕海軍少将・子爵の手でハサミが入れられた。
満州事変が始まると国粋主義の台頭の波に乗じて相撲の興行日数がふえた。それまでの1年7日から13日、15日、さらに東京・大阪・福岡・名古屋の4個所で6場所、1場所15日間の興行を行うようになった。
宮城山は引退して年寄・白玉、のち芝田山を襲名し勝負審判を務めた。そして、国技館近くに柴田山部屋を設け、11人の弟子をかかえた。大半は岩手県出身者。
部屋の経営は苦しかったようだが、稽古の合間をみてはプロ野球(阪神びいき)をみたり部屋対抗の野球に興じたりした。
1943昭和18年11月19日、夫人の郷里、高知市に巡業中、脳溢血で急死。48歳。
遺骨は両親の眠る一関・円満寺と夫人の郷里・高知に分骨埋葬された。
弟子は全員が高砂部屋へ引き取られ、宮錦浩が小結へ、嶋錦博が前頭まで出世した。
参考: 『岩手の先人100人』遠山崇1992岩手日報社(写真、昭和6年) / 『岩手県名士肖像録:御大典記念』(1930刊行会)/ 『近現代史用語辞典』安岡昭男1992新人物往来社 / 『角川歴史事典1908』 / ウイキペディア
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