力強い人間像を独特のリズムで描き出した、真船 豊(福島県)
狭いようでも日本は広い。雪が積もっている地方も多いが、関東はからからに晴れが続いている。お正月の寄せ植え鉢の梅を数年続けて地面に下ろしたが、毎年今ごろになるとどれも花をつける。地植えすれば水をやらなくても花をつけるから地面ってすごい。しかも、冬真っ盛りに凛としてきれいな花を咲かせる。なんとかその風情を表現したいが一句も浮かばない。絵にも描けず「きれい」でお終い。これが小説家や劇作家の手にかかると、一輪の梅も物語に余韻を与えそう。400に及ぶ作品を遺した劇作家、真船豊の戯曲や小説にも、凛と咲く梅、登場するだろうか。
真船 豊 1902明治35年2月16日、福島県郡山市湖南町福良(安積郡福良村、猪苗代湖南岸の旧村)で生まれる。真船禎吾の次男。
?年、 福良小学校卒業の春、養子になるはずで北海道の海産物商の家にいったが、途中から小僧として使われた。商業学校をでたクリスチャンの店員からトルストイ「イワンの馬鹿」を聞かされて感動。一年余りで上京。
1915大正4年、早稲田実業に入学。
兄(別の資料では先生達)に連れられて歌舞伎を観ているうちに芝居好きになり、寄席にも通った。
1923大正12年、早稲田大学英文科に進学。横山有策に師事。このころ、イプセン「ブランド」で戯曲の恐ろしさを知り読みふける。
*イプセン: ノルウエーの劇作家。近代劇の確立者。
在学中『早稲田文学』に戯曲「村はづれ」などを発表、*秋田雨雀らの注目を浴びた。その後、社会主義思想を学び、文学とは人間修業であることを痛感、ついに学業を捨てて北海道に渡り遠軽の家庭学校農場で牧夫生活をする。
*秋田雨雀: 明治・大正・昭和きの劇作家。戦時中は弾圧に耐え、敗戦後、舞台芸術学院長として後継者の指導にあたった。
1924大正13年、築地小劇場の出現によって諸外国の劇文学に慧眼をひらき、イプセンに傾倒。また、社会主義運動に駆り立てられプロレタリア演劇に陶酔した。
1926大正15年、昭和元年10月、「水泥棒」12月、「馬市が来て」を『戯曲』に発表(これは後年繰り返し上演・放送された)。
1927昭和2年、「寒鴨」「残された二人」を早稲田文学に発表。
1929昭和4年、四国で農民運動に入り貧農の家を訪ねて回ったが、師・横山有策の訃報で帰京。
『大阪毎日新聞』大津支局員となるが、新聞記者になりきれず10ヶ月で辞職。
1931昭和6年8月、「島の嵐」を前進座により初演。
その後、生活とたたかっているうちに、戯曲を書こうという気持ちがおこり「民衆の旗」などを書き上げた。戯曲研究会に参加。このころ、結婚。
1933昭和8年、稲垣達郎、三好十郎らとの「十日会」で勉強を深める。
1934昭和9年、『劇文学』創刊号に「鼬」を発表。脚光をあびて大成功をおさめた。
「鼬」: 東北の一寒村を舞台に、旧家の没落した生家の屋敷をねらう「いたち」のような悪賢い「おとり」と生家の嫁「おかじ」との偏執的な争いを軸に物欲にうごめく人間の醜さを方言を交えて執拗に描いた悲喜劇。
この生家は福良の真船の生家近くにあった旅籠がモデルといわれている。これが久保田万太郎(小説家・劇作家)演出で創作座で上演されるや、その円熟した劇作は日本文壇の刮目するところとなり、劇作家としての地位を得る(『会津人物辞典』)。
1935昭和10年、「鼠落とし」「鉈」「山鳩」などを発表、創作座や新派で上演された。
これらの作品は農村の封建的な家族の争いを主題としたものであったが、我欲に疲れた人間像を力強い筆致で描き出し、方言をいかした独自な真船調のリズムが生み出された。
1936昭和11~17年、都会的な人間像に目をうつし「裸の町」「太陽の子」を書いて、人間内部にドラマを掘り下げ、人間の美しさ強さを探し求めた。二作とも映画化された。
筆力はいよいよ旺盛になり、「鬼怒子」「見知らぬ人」「小さき町」「北斗星」など書いた。
1937昭和12年、代表作の一つ「遁走譜」。演出に千田是也(新劇俳優、演出家)があたって成功し、以来真船の作は千田によって見事に表現された。
1939昭和14年3月妻死去。4月、満州・北支旅行。以後、再三にわたり大陸を旅行し、日本人批判、時代相の諷刺をぶちまける。
1945昭和20年2月、ハルピンで長編小説『雁の影』執筆。6月、長編戯曲「中橋公館」の前編を脱稿。新京文藝春秋社に渡したが、終戦時に紛失。12月、引きあげ帰国。
1946昭和21年5月、戦争と親と子と、海外日本人の問題をとりあげた「中橋公館」後編を『人間』に発表。新旧の日本人を対照させて荒廃した現実を諷刺したこの戯曲は大阪で初演された。44歳。
1948昭和23年、「黄色い部屋」「眠り猫」を発表。それぞれ上演された。
1949昭和24年、「猿蟹合戦」などの戯曲やラジオドラマを執筆。
鋭い人間諷刺を独特のリズムによって描いた。戯曲を書くことは人間修業だとしてあくことなく人間を追求していったが、小説は戯曲と違って叙情的な作品を書き続けた。
1955昭和30年、『NHK放送劇選集』ほかに作品収録。
1958昭和33年、自伝『孤独の徒走』刊行。
1963昭和38年10月、胃潰瘍手術のため入院。翌年2月、退院。
1971昭和46年、69歳。『現代日本戯曲体型Ⅰ』に「中橋公館」収録。
1977昭和52年8月、久保田万太郎らとともに日本の劇文学を先進国並みに高めた業績を称えられ、勲4等旭日小授章を授与された。
東京で死去。享年75。
1979昭和54年10月25日、生地近くの猪苗代湖畔、青松浜入口に真船豊文学碑建立。二悌子(ふでこ)未亡人も出席して除幕式が行われた。
なァおしま
生まれ故郷ほど
せいせいすっとこは
ねいなァ
参考: 『会津人物辞典(文人編)』小島一男1990歴史春秋出版 /『現代日本文学辞典』1965明治書院 / 『現代日本文学大系58』1974筑摩書房(写真も)
| 固定リンク
コメント