明治草創期の地方行政先駆者、安場保和(熊本県)
近ごろ何かにつけて「平成最後の○○」がはやっている。「最後の」がつくと平成が終わる前に何かを残せと言われてる気がするが、今さら何もできない。
さて、平成時代と昔の違いは、AIなどの新技術が発達して向き合っていなくても意思の疎通が簡単にできることだろうか。電話すらない時代は、会って話をする必要があった。見ず知らず同士が互いを理解するには、出会いが大切である。
戊辰の戦に敗れ賊軍とされた会津人にも出会いに恵まれ、活躍の場を得た者は少なくない。柴五郎もその一人だが、不遇のときもあった。
――― 柴五郎は安場と同じ熊本出身の野田豁通の紹介で、福島県知事として赴任中の安場保和の留守宅で下僕となる・・・・・・ 夫人が木綿絣の羽織を新調してくれ、どうにか身なりは整ったものの給料は一文も支給されず、身の回り品を書生を通して与えられるのみであった。
仕事は掃除、食事の給仕、安場家の娘が女学校登校の際、書籍包みと重箱の弁当をさげて供をした。同じ年頃の少女が乗った人力車の後ろを荷物を持って走るのは痛ましい(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』より)。
柴五郎ファンとして、前述の事情から安場の印象はよくない。ところが、『岩倉使節団の群像』の<安場保和――地方行政の国士的キーマン(芳野健二)>を読んで印象が変わった。また、五郎が下僕をしたのは留守宅で、安場に直接会っていないらしい。互いを知る機会がなかったのだ。では、安場保和はどのような人物で何を為したのか、みてみた。
安場 保和 (やすば やすかず)
1835天保6年4月17日、肥後細川藩士、安場源右衛門の長男に生まれる。号は咬菜軒(こうさいけん)。
安場家は家老の家柄。赤穂浪士・大石内蔵助が細川藩預かりとなった縁で赤穂事件にゆかりがある。
8歳で藩校・時習館に入り、頭角を現す。
15歳のとき横井小楠の塾で学び、小楠が福井藩主に招かれると随行した。そのお陰で小楠に面会に来る勝海舟、坂本龍馬、木戸孝允などと知り合い貴重な人脈となる。
“世のため人のため、横井小楠・時雄父子(熊本)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/02/post-ea3c.html
1868慶應4年、戊辰戦争。
東海道鎮撫総督府参謀として参戦、江戸開城に際し勝・西郷の会談に立ち会った。
明治維新後、徴士で新政府参与。大久保利通とは相性がよく中央行政にも関わった。
1869明治2年8月、胆沢県大参事。旧南部藩の地でのちの岩手県。
折から凶作で財政難には3万両を借り入れて対処。生糸・鉄などの特産品を県直轄とする。また県南部の水沢で2少年を見いだし県庁給仕に採用する。少年の一人はのちの有名政治家、安場の次女と結婚した後藤新平である。後藤は関東大震災後の復興計画をつくり満鉄総裁となるなど大いに活躍する。
もう一人は、のちの海軍大将。内大臣のとき、2.26事件で殺害された斎藤実である。
“2.26事件、斎藤実(岩手県水沢)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/02/226-a686.html
1871明治4年11月、欧米に派遣される岩倉使節団、米欧回覧の一行が横浜を出航。
安場も大蔵省の租税権頭として派遣される。ときに36歳。
1872明治5年、岩倉使節団がアメリカに滞在中、自分のような英語もわからぬ頑固者に貴重な金を費わせるのは無駄と申し出て帰国してしまう。
この年6月、福島権令ついで県令となる。
中央集権の柱、大久保利通は気心のしれた安場をかつて朝敵であった東北の県の長にした。以来、3年半にわたり地租の軽減や安積開発・二本松製糸会社の設立・須賀川医学校の開設などを積極的におこなった。
――― 安積疏水をオランダの技師、ファン・ドールンの招聘によって進めたのはその典型。当初の構想である東北地方を横貫して阿武隈川から猪苗代湖にいたり阿賀野川に抜ける大運河構想を破棄し鉄道建設に取って代わらせ、疏水方式による通航が出来ない通水のみの機能に絞って実現した。それにより、現在の郡山地方周辺の開発に土台を築いた功績は大きい。また、十綱橋の福島県費を使った建設をも行うなど、人心の慰留につとめた(ウイキペディア)。
“安積疎水と阿部茂兵衛(福島県郡山)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/05/post-2c0c.html
“二本松製糸場・金山(佐野)製糸場、佐野理八(福島県・宮城県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/06/post-ae37.html
1871明治8年、愛知県令 5年間。
――― 県吏その大半を罷免して、更に才器ある者を簡抜任用せり。その果断亦人をして目を刮らしむ(『明治百傑伝』)
地租の緩和、矢作川を利用した明治用水の開発、病院開設に力をに入れた。
ちなみに、地方行政の難治県といわれた福島・愛知・福岡の県令をつとめた安場保和、京都の槇村正直、新潟の楠本正隆を明治前期の「三大県令」とも。
1878明治11年5月、大久保利通、東京紀尾井町で石川県士族らに暗殺される。
大久保の死後、権力をにぎった伊藤博文と馬が合わなかったせいか、大臣になることはなかった。
1880明治13年、元老院議官。
1881明治14年、参事院議官。“明治14年の政”では、伊藤にも大隈にも組せず、谷干城らと中正党の中心となる。
“トルコ金閣湾で釣り、谷干城と柴四朗”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2010/03/post-4cc2.html
“本ほんご本: 谷干城”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2009/09/post-a586.html
1884明治17年、団長として北海道視察。利尻・礼文・国後択捉・歯舞色丹・カムチャッカまで足を伸ばす。
1886明治19年、福岡県令となり6年半つとめる。その間、門司港の築港 筑後川の改修、筑豊炭田の整備、九州鉄道の設立を政府に上申、許可された。
1892明治25年、愛知県知事。
第2回衆議院議員総選挙にさいし選挙干渉の中心となり、のちに問題となり止めさせられる。勅選の貴族院議員となる。またこのころから心臓病の症状がではじめる。
1896明治29年、男爵。
1897明治30年、北海道長官。かねて調査をした北海道開拓意見書が評価され、期待のポストについたが、病をえて1年で離任。
1899明治32年5月23日、心臓病により死去。64歳。
参考:「近代日本人の肖像」国立国会図書館 / 日本近代化のパイオニア『岩倉使節団の群像』米欧回覧の会2019ミネルヴァ書房 / 『明治百傑伝』千河貫一編1902青木蒿山堂 / ウイキペディア
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熊本県立図書館より催し物の案内をいただきました。興味をそそられましたが、遠方なので残念。 せっかくなのでご紹介、お近くの方どうぞおでかけください。
<第33回郷土関係出版物――ふるさと熊本ゆかりの著作物――>
期間: 平成31(2019)年3月14日~3月28日 (休館日3.19、3.26)
時間: 9:30分~17時
会場: 熊本県立図書館 3階 小研修室(096-384-5000)
展示資料
平成30年に刊行された郷土関係資料で、館が収集した図書 約600点
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